紛紜《ふんうん》でも過失でも局外から評する場合には大変|苛《から》い。すなわちおれが彼の地位にいたらこんな失体は演じまいと云う己を高く見積る浪漫的な考がどこかに潜《ひそ》んでいるのであります。さて自分がその局に当ってやって見ると、かえって自分の見縊《みくび》った先任者よりも烈《はげ》しい過失を犯しかねないのだから、その時その場合に臨むと本来の弱点だらけの自己が遠慮なく露出されて、自然主義でどこまでも押して行かなければやりきれないのであります。だから私は実行者は自然派で批評家は浪漫派だと申したいぐらいに考えています。次に御話したいのは先年来自然主義をある一部の人が唱《とな》え出して以後世間一般ではひどくこれを嫌《きら》ってはては自然主義といえば堕落とか猥褻《わいせつ》とかいうものの代名詞のようになってしまいました。しかし何もそう恐れたり嫌ったりする必要は毫《ごう》もないので、その結果の健全な方も少しは見なければなりません。元来自分と同じような弱点が作物の中に書いてあって、己と同じような人物がそこに現われているとすれば、その弱点を有する人間に対する同情の念は自然起るべきはずであります。また自分もいつこういう過失を犯さぬとも限らぬと云う寂寞《じゃくまく》の感も同時にこれに伴うでしょう。己惚《うぬぼれ》の面を剥《は》ぎ取って真直な腰を低くするのはむしろそういう文学の影響と言わなければなりません。もし自然派の作物でありながらこういう健全な目的を達することができなければ、それこそ作物自身が悪いのであると云わなければならない。悪いという意味は作物が出来損《できそこな》っているのです、どこか欠点があると云うのです。前《ぜん》説明した言葉を用いて評すれば、そういう作物にはどこか不道徳の分子がある、すなわちどこか非芸術のところがある、すなわちどこか偽りを書いているのだという事に帰着するのです。ありのままの本当をありのままに書く正直という美徳があればそれが自然と芸術的になり、その芸術的の筆がまた自然善い感化を人に与えるのは前段の分解的記述によってもう御会得《ごえとく》になった事と思います。自然主義に道義の分子があるという事はあまり人の口にしないところですからわざわざ長々と弁じました。もっともただ新らしい私の考だから御吹聴《ごふいちょう》をするという次第ではありません。御承知の通り演題が「
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