が、さほど敬太郎に関係のある訳でもないので、彼はそれなり黙ってしまった。すると母は少しでも談話の途切《とぎ》れるのを自分の過失ででもあるように、すぐ言葉を継《つ》いだ。
「それでも妹婿《いもとむこ》の方は御蔭《おかげ》さまで、何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますから、この方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが、手前共や矢来の弟《おとと》などになりますと、云わば、浪人《ろうにん》同様で、昔に比《くら》べたら、尾羽うち枯らさないばかりの体《てい》たらくだって、よく弟ともそう申しては笑うこってございますよ」
 敬太郎は何となく自分の身の上を顧《かえり》みて気恥かしい思をした。幸《さいわい》にさきがすらすら喋舌《しゃべ》ってくれるので、こっちに受け答をする文句を考える必要がないのをせめてもの得《とく》として聞き続けた。
「それにね、御承知の通り市蔵がああいう引っ込思案の男だもんでござんすから、私もただ学校を卒業させただけでは、全く心配が抜けませんので、まことに困り切ります。早く気に入った嫁でも貰って、年寄に安心でもさせてくれるようにおしなと申しますと、そう御母さんの都合のいいようにばかり世の中は行きゃしませんて、てんで相手にしないんでございますよ。そんなら世話をしてくれる人に頼んで、どこへでもいいから、務《つとめ》にでも出る気になればまだしも、そんな事にはまたまるで無頓着《むとんじゃく》であなた……」
 敬太郎はこの点において実際須永が横着過《おうちゃくすぎ》ると平生《ふだん》から思っていた。「余計な事ですが、少し目上の人から意見でもして上げるようにしたらどうでしょう。今御話の矢来の叔父さんからでも」と全く年寄に同情する気で云った。
「ところがこれがまた大の交際嫌の変人でございまして、忠告どころか、何だ銀行へ這入《はい》って算盤《そろばん》なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんかと、こうでございますから頭から相談にも何にもなりません。それをまた市蔵が嬉《うれ》しがりますので。矢来の叔父の方が好きだとか気が合うとか申しちゃよく出かけます。今日なども日曜じゃあるし御天気は好しするから、内幸町の叔父が大阪へ立つ前にちょっとあちらへ顔でも出せばいいのでございますけれども、やっぱり矢来へ行くんだって、とうとう自分の好きな方へ参りました」
 敬太郎はこの時自分が今日何のために馳《か》け込むようにこの家を襲《おそ》ったかの原因について、また新らしく考え出した。彼は須永の顔を見たら随分過激な言葉を使ってもその不都合を責めた上、僕はもう二度とあすこの門は潜《くぐ》らないつもりだから、そう思ってくれたまえぐらいの台詞《せりふ》を云って帰る気でいたのに、肝心《かんじん》の須永は留守《るす》で、事情も何も知らない彼の母から、逆《さか》さにいろいろな話をしかけられたので、怒《おこ》ってやろうという気は無論抜けてしまったのである。が、それでも行きがかり上、田口と会見を遂《と》げ得なかった顛末《てんまつ》だけは、一応この母の耳へでも構わないから入れておく必要があるだろう。それには話の中に内幸町へ行くとか行かないとかが問題になっている今が一番よかろう。――こう敬太郎は思った。

        十二

「実はその内幸町の方へ今日私も出たんですが」と云い出すと、自分の息子の事ばかり考えていた母は、「おやそうでございましたか」とやっと気がついてすまないという顔つきをした。この間から敬太郎《けいたろう》が躍起《やっき》になって口を探《さが》している事や、探しあぐんで須永《すなが》に紹介を頼んだ事や、須永がそれを引き受けて内幸町の叔父に会えるように周旋した事は、須永の傍《そば》にいる母として彼女《かのおんな》のことごとく見たり聞いたりしたところであるから、行き届いた人なら先方《さき》で何も云い出さない前に、こっちからどんな模様ですぐらいは聞いてやるべきだとでも思ったのだろう。こう観察した敬太郎は、この一句を前置に、今までの成行を残らず話そうと力《つと》めにかかったが、時々相手から「そうでございますとも」とか、「本当にまあ、間《ま》の悪い時にはね」とか、どっちにも同情したような間投詞が出るので、自分がむかっ腹《ぱら》を立てて悪体《あくたい》を吐《つ》いた事などは話のうちから綺麗《きれい》に抜いてしまった。須永の母は気の毒という言葉を何遍もくり返した後《あと》で、田口を弁護するようにこんな事を云った。――
「そりゃあ実のところ忙しい男なので。妹《いもと》などもああして一つ家に住んでおりますようなものの、――何でごさんしょう。――落々《おちおち》話のできるのはおそらく一週間に一日もございますまい。私が見かねて要作《ようさく》さんいくら御金が儲《もう》かるたって、そう働らいて身体《からだ》を壊しちゃ何にもならないから、たまには骨休めをなさいよ、身体が資本《もとで》じゃありませんかと申しますと、おいらもそう思ってるんだが、それからそれへと用が湧《わ》いてくるんで、傍《そば》から掬《しゃ》くい出さないと、用が腐っちまうから仕方がないなんて笑って取り合いませんので。そうかと思うとまた妹や娘に今日はこれから鎌倉へ伴《つ》れて行く、さあすぐ支度をしろって、まるで足元から鳥が立つように急《せ》き立てる事もございますが……」
「御嬢さんがおありなのですか」
「ええ二人おります。いずれも年頃でございますから、もうそろそろどこかへ片づけるとか婿《むこ》を取るとかしなければなりますまいが」
「そのうちの一人の方《かた》が、須永君のところへ御出《おいで》になる訳でもないんですか」
 母はちょっと口籠《くちごも》った。敬太郎もただ自分の好奇心を満足させるためにあまり立ち入った質問をかけ過ぎたと気がついた。何とかして話題を転じようと考えているうちに、相手の方で、
「まあどうなりますか。親達の考もございましょうし。当人達《とうにんたち》の存じ寄りもしかと聞糺《ききただ》して見ないと分りませんし。私ばかりでこうもしたい、ああもしたいといくら熱急《やきもき》思ってもこればかりは致し方がございません」と何だか意味のありそうな事を云った。一度|退《ひ》きかけた敬太郎の好奇心はこの答でまた打ち返して来そうにしたが、善《よ》くないという克己心《こっきしん》にすぐ抑えられた。
 母はなお田口の弁護をした。そんな忙がしい身体《からだ》だから、時によると心にもない約束違いなどをする事もあるが、いったん引き受けた以上は忘れる男ではないから、まあ旅行から帰るまで待って、緩《ゆっ》くり会ったら宜《よ》かろうという注意とも慰藉《いしゃ》ともつかない助言《じょごん》も与えた。
「矢来のはおっても会わん方で、これは仕方がございませんが、内幸町のはいないでも都合さえつけば馳《か》けて帰って来て会うといった風の性質《たち》でございますから、今度旅行から帰って来さえすれば、こっちから何とも云ってやらないでも、向うできっと市蔵のところへ何とか申して参りますよ。きっと」
 こう云われて見ると、なるほどそういう人らしいが、それはこっちがおとなしくしていればこそで、先刻《さっき》のようにぷんぷん怒ってはとうてい物にならないにきまり切っている。しかし今更《いまさら》それを打ち明ける訳には行かないので、敬太郎はただ黙っていた。須永の母はなお「あんな顔はしておりますが、見かけによらない実意のある剽軽者《ひょうきんもの》でございますから」と云って一人で笑った。

        十三

 剽軽者という言葉は田口の風采《ふうさい》なり態度なりに照り合わせて見て、どうも敬太郎《けいたろう》の腑《ふ》に落ちない形容であった。しかし実際を聞いて見ると、なるほど当っているところもあるように思われた。田口は昔《むか》しある御茶屋へ行って、姉さんこの電気灯は熱《ほて》り過ぎるね、もう少し暗くしておくれと頼んだ事があるそうだ。下女が怪訝《けげん》な顔をして小さい球と取り換えましょうかと聞くと、いいえさ、そこをちょいと捻《ねじ》って暗くするんだと真面目《まじめ》に云いつけるので、下女はこれは電気灯のない田舎《いなか》から出て来た人に違ないと見て取ったものか、くすくす笑いながら、旦那電気はランプと違って捻《ひね》ったって暗くはなりませんよ、消えちまうだけですから。ほらねとぱちッと音をさせて座敷を真暗にした上、またぱっと元通りに明るくするかと思うと、大きな声でばあと云った。田口は少しも悄然《しょげ》ずに、おやおやまだ旧式を使ってるね。見っともないじゃないか、ここの家《うち》にも似合わないこった。早く会社の方へ改良を申し込んでおくといい。順番に直してくれるから。とさももっともらしい忠告を与えたので、下女もとうとう真《ま》に受け出して、本当にこれじゃ不便ね、だいち点《つ》けっ放《ぱな》しで寝る時なんか明る過ぎて、困る人が多いでしょうからとさも感心したらしく、改良に賛成したそうである。ある時用事が出来て門司《もじ》とか馬関《ばかん》とかまで行った時の話はこれよりもよほど念が入《い》っている。いっしょに行くべきはずのAという男に差支《さしつかえ》が起って、二日ばかり彼は宿屋で待ち合わしていた。その間の退屈紛《たいくつまぎ》れに、彼はAを一つ担《かつ》いでやろうと巧《たく》らんだ。これは町を歩いている時、一軒の写真屋の店先でふと思いついた悪戯《いたずら》で、彼はその店から地方《ところ》の芸者の写真を一枚買ったのである。その裏へA様と書いて、手紙を添えた贈物のように拵《こしら》えた。その手紙は女を一人雇って、充分の時間を与えた上、できるだけAの心を動かすように艶《なま》めかしく曲《くね》らしたもので、誰が貰《もら》っても嬉《うれ》しい顔をするに足るばかりか、今日の新聞を見たら、明日《あした》ここへ御着のはずだと出ていたので、久しぶりにこの手紙を上げるんだから、どうか読みしだい、どこそこまで来ていただきたいと書いたなかなか安くないものであった。彼はその晩自分でこの手紙をポストへ入れて、翌日配達の時またそれを自分で受取ったなり、Aの来るのを待ち受けた。Aが着いても彼はこの手紙をなかなか出さなかった。力《つと》めて真面目《まじめ》な用談についての打合せなどを大事らしくし続けて、やっと同じ食卓で晩餐《ばんさん》の膳《ぜん》に向った時、突然思い出したように袂《たもと》の中からそれを取り出してAに与えた。Aは表に至急親展とあるので、ちょっと箸《はし》を下に置くと、すぐ封を開いたが、少し読み下《くだ》すと同時に包んである写真を抜いて裏を見るや否《いな》や、急に丸めるように懐《ふところ》へ入れてしまった。何か急《いそぎ》の用でもできたのかと聞くと、いや何というばかりで、不得要領《ふとくようりょう》にまた箸を取ったが、どことなくそわそわした様子で、まだ段落のつかない用談をそのままに、少し失礼する腹が痛いからと云って自分の部屋に帰った。田口は下女を呼んで、今から十五分以内にAが外出するだろうから、出るときは車が待ってでもいたように、Aが何にも云わない先に彼を乗せて馳《か》け出して、その思わく通りどこの何という家《うち》の門《かど》へおろすようにしろと云いつけた。そうして自分はAより早く同じ家へ行って、主婦《かみさん》を呼ぶや否や、今おれの宿の提灯《ちょうちん》を点《つ》けた車に乗って、これこれの男が来るから、来たらすぐ綺麗《きれい》な座敷へ通して、叮嚀《ていねい》に取扱って、向うで何にも云わない先に、御連様《おつれさま》はとうから御待兼《おまちかね》でございますと云ったなり引き退がって、すぐおれのところへ知らせてくれと頼んだ。そうして一人で煙草《たばこ》を吹かして腕組をしながら、事件の経過を待っていた。すると万事が旨《うま》い具合に予定の通り進行して、いよいよ自分の出る順が来た。そこでAの部屋の傍《そば》へ行って間の襖《ふすま》を開けながら、やあ早かったねと挨拶《あいさつ》す
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