人とかいうものは、ことごとく長火鉢や台所の卑しい人生の葛藤《かっとう》を超越しているのだろうか。僕はまだ学校を卒業したばかりの経験しか有《も》たない青二才に過ぎないが、僕の知力と想像に訴えて考えたところでは、おそらくそんな偉い人高い人はいつの世にも存在していないのではなかろうか。僕は松本の叔父を尊敬している。けれども露骨なことを云えば、あの叔父のようなのは偉く見える人、高く見せる人と評すればそれで足りていると思う。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物《きぶつがんぶつ》の名を加える非礼と僻見《へきけん》とを憚《はば》かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥《こうでい》しない顔をして、腹の中で拘泥しているのである。小事に齷齪《あくそく》しない手を拱《こま》ぬいで、頭の奥で齷齪しているのである。外へ出さないだけが、普通より品《ひん》が好いと云って僕は讃辞を呈したく思っている。そうしてその外へ出さないのは財産の御蔭《おかげ》、年齢《とし》の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れているからでもあり、彼と社会の関係が逆《ぎゃく》なようで実は順《じゅん》に行くからでもある。――話がつい横道へ外《そ》れた。僕は僕のこせこせしたところを余り長く弁護し過ぎたかも知れない。
 僕は今いう通り早く二階へ上《あが》ってしまった。二階は日が近いので、階下《した》よりはよほど凌《しの》ぎ悪《にく》いのだけれども、平生いつけたせいで、僕は一日の大部分をここで暮らす事にしていたのである。僕はいつもの通り机の前に坐《すわ》ったなりただ頬杖《ほおづえ》を突いてぼんやりしていた。今朝|煙草《たばこ》の灰を棄《す》てたマジョリカの灰皿が綺麗《きれい》に掃除《そうじ》されて僕の肱《ひじ》の前に載《の》せてあったのに気がついて、僕はその中に現わされた二羽の鵞鳥《がちょう》[#「鵞鳥」は底本では「鷲鳥」]を眺《なが》めながら、その灰を空《あ》けた作《さく》の手を想像に描《えが》いた。すると下から梯子段《はしごだん》を踏む音がして誰か上って来た。僕はその足音を聞くや否や、すぐそれが作でない事を知った。僕はこうぼんやり屈托しているところを千代子に見られるのを屈辱のように感じた。同時に傍《そば》にあった書物を開けて、先刻《さっき》から読んでいたふりをするほど器用な機転を用いるのを好まなかった。
「結《い》えたから見てちょうだい」
 僕は僕の前にすぐこう云いながら坐る彼女を見た。
「おかしいでしょう。久しく結わないから」
「大変美くしくできたよ。これからいつでも島田に結《ゆ》うといい」
「二三度|壊《こわ》しちゃ結い、壊しちゃ結いしないといけないのよ。毛が馴染《なず》まなくって」
 こんな事を聞いたり答えたり三四|返《へん》しているうちに、僕はいつの間にか昔と同じように美くしい素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がし出した。僕の心持が何かの調子で和《やわ》らげられたのか、千代子の僕に対する態度がどこかで角度を改ためたのか、それは判然《はんぜん》と云い悪《にく》い。こうだと説明のできる捕《とらえ》どころは両方になかったらしく記憶している。もしこの気易《きやす》い状態が一二時間も長く続いたなら、あるいは僕の彼女に対して抱《いだ》いた変な疑惑を、過去に溯《さかの》ぼって当初から真直《まっすぐ》に黒い棒で誤解という名の下《もと》に消し去る事ができたかも知れない。ところが僕はつい不味《まず》い事をしたのである。

        三十四

 それはほかでもない。しばらく千代子と話しているうちに、彼女が単に頭を見せに上《あが》って来たばかりでなく、今日これから鎌倉へ帰るので、そのさようならを云いにちょっと顔を出したのだと云う事を知った時、僕はつい用意の足りない躓《つま》ずき方をしたのである。
「早いね。もう帰るのかい」と僕が云った。
「早かないわ、もう一晩泊ったんだから。だけどこんな頭をして帰ると何だかおかしいわね、御嫁にでも行くようで」と千代子が云った。
「まだみんな鎌倉にいるのかい」と僕が聞いた。
「ええ。なぜ」と千代子が聞き返した。
「高木さんも」と僕がまた聞いた。
 高木という名前は今まで千代子も口にせず、僕も話頭に上《のぼ》すのをわざと憚《はば》かっていたのである。が、何かの機会《はずみ》で、平生《いつも》通りの打ち解けた遠慮のない気分が復活したので、その中に引き込まれた矢先、つい何の気もつかずに使ってしまったのである。僕はふらふらとこの問をかけて彼女の顔を見た時たちまち後悔した。
 僕が煮え切らないまた捌《さば》けない男として彼女から一種の軽蔑《けいべつ》を受けている事は、僕のとうに話した通りで、実を云えば二人の交際はこの黙許を認め合った上の親しみに過ぎなかった。その代り千代子が常に畏《おそ》れる点を、幸《さいわい》にして僕はただ一つ有《も》っていた。それは僕の無口である。彼女のように万事明けっ放しに腹を見せなければ気のすまない者から云うと、いつでも、しんねりむっつりと構えている僕などの態度は、けっして気に入るはずがないのだが、そこにまた妙な見透《みす》かせない心の存在が仄《ほの》めくので、彼女は昔から僕を全然知り抜く事のできない、したがって軽蔑しながらもどこかに恐ろしいところを有った男として、ある意味の尊敬を払っていたのである。これは公《おおや》けにこそ明言しないが、向うでも腹の底で正式に認めるし、僕も冥々《めいめい》のうちに彼女から僕の権利として要求していた事実である。
 ところが偶然高木の名前を口にした時、僕はたちまちこの尊敬を永久千代子に奪い返されたような心持がした。と云うのは、「高木さんも」という僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを強《あなが》ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今まで僕がいまだかつて彼女に見出した試しのない、一種の侮蔑《ぶべつ》が輝やいたのは疑いもない事実であった。僕は予期しない瞬間に、平手《ひらて》で横面《よこつら》を力任せに打たれた人のごとくにぴたりと止《と》まった。
「あなたそれほど高木さんの事が気になるの」
 彼女はこう云って、僕が両手で耳を抑《おさ》えたいくらいな高笑いをした。僕はその時鋭どい侮辱を感じた。けれどもとっさの場合何という返事も出し得なかった。
「あなたは卑怯《ひきょう》だ」と彼女が次に云った。この突然な形容詞にも僕は全く驚ろかされた。僕は、御前こそ卑怯だ、呼ばないでもの所へわざわざ人を呼びつけて、と云ってやりたかった。けれども年弱な女に対して、向うと同じ程度の激語を使うのはまだ早過ぎると思って我慢した。千代子もそれなり黙った。僕はようやくにして「なぜ」というわずか二字の問をかけた。すると千代子の濃い眉《まゆ》が動いた。彼女は、僕自身で僕の卑怯な意味を充分自覚していながら、たまたま他《ひと》の指摘を受けると、自分の弱点を相手に隠すために、取《と》り繕《つく》ろって空《そら》っとぼけるものとこの問を解釈したらしい。
「なぜって、あなた自分でよく解ってるじゃありませんか」
「解らないから聞かしておくれ」と僕が云った。僕は階下《した》に母を控えているし、感情に訴える若い女の気質もよく呑《の》み込んだつもりでいたから、できるだけ相手の気を抜いて話を落ちつかせるために、その時の僕としては、ほとんど無理なほどの、低いかつ緩《ゆる》い調子を取ったのであるが、それがかえって千代子の気に入らなかったと見える。
「それが解らなければあなた馬鹿よ」
 僕はおそらく平生《いつも》より蒼《あお》い顔をしたろうと思う。自分ではただ眼を千代子の上にじっと据《す》えた事だけを記憶している。その時何物も恐れない千代子の眼が、僕の視線と無言のうちに行き合って、両方共しばらくそこに止《と》まっていた事も記憶している。

        三十五

「千代ちゃんのような活溌《かっぱつ》な人から見たら、僕見たいに引込思案《ひっこみじあん》なものは無論|卑怯《ひきょう》なんだろう。僕は思った事をすぐ口へ出したり、またはそのまま所作《しょさ》にあらわしたりする勇気のない、極《きわ》めて因循《いんじゅん》な男なんだから。その点で卑怯だと云うなら云われても仕方がないが……」
「そんな事を誰が卑怯だと云うもんですか」
「しかし軽蔑《けいべつ》はしているだろう。僕はちゃんと知ってる」
「あなたこそあたしを軽蔑しているじゃありませんか。あたしの方がよっぽどよく知ってるわ」
 僕はことさらに彼女のこの言葉を肯定する必要を認めなかったから、わざと返事を控えた。
「あなたはあたしを学問のない、理窟《りくつ》の解らない、取るに足らない女だと思って、腹の中で馬鹿にし切ってるんです」
「それは御前が僕をぐずと見縊《みくび》ってるのと同じ事だよ。僕は御前から卑怯と云われても構わないつもりだが、いやしくも徳義上の意味で卑怯というなら、そりゃ御前の方が間違っている。僕は少なくとも千代ちゃんに関係ある事柄について、道徳上卑怯なふるまいをした覚《おぼえ》はないはずだ。ぐずとか煮え切らないとかいうべきところに、卑怯という言葉を使われては、何だか道義的勇気を欠いた――というより、徳義を解しない下劣な人物のように聞えてはなはだ心持が悪いから訂正して貰いたい。それとも今いった意味で、僕が何か千代ちゃんに対してすまない事でもしたのなら遠慮なく話して貰おう」
「じゃ卑怯の意味を話して上げます」と云って千代子は泣き出した。僕はこれまで千代子を自分より強い女と認めていた。けれども彼女の強さは単に優《やさ》しい一図から出た女気《おんなぎ》の凝《こ》り塊《かたま》りとのみ解釈していた。ところが今僕の前に現われた彼女は、ただ勝気に充ちただけの、世間にありふれた、俗っぽい婦人としか見えなかった。僕は心を動かすところなく、彼女の涙の間からいかなる説明が出るだろうと待ち設けた。彼女の唇《くちびる》を洩《も》れるものは、自己の体面を飾る強弁よりほかに何もあるはずがないと、僕は固く信じていたからである。彼女は濡《ぬ》れた睫毛《まつげ》を二三度|繁叩《しばたた》いた。
「あなたはあたしを御転婆《おてんば》の馬鹿だと思って始終《しじゅう》冷笑しているんです。あなたはあたしを……愛していないんです。つまりあなたはあたしと結婚なさる気が……」
「そりゃ千代ちゃんの方だって……」
「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云うんでしょう。そんならそれで宜《よ》うござんす。何も貰《もら》って下さいとは云やしません。ただなぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」
 彼女はここへ来て急に口籠《くちごも》った。不敏な僕はその後へ何が出て来るのか、まだ覚《さと》れなかった。「御前に対して」と半《なか》ば彼女を促《うな》がすように問をかけた。彼女は突然物を衝《つ》き破った風に、「なぜ嫉妬《しっと》なさるんです」と云い切って、前よりは劇《はげ》しく泣き出した。僕はさっと血が顔に上《のぼ》る時の熱《ほて》りを両方の頬《ほお》に感じた。彼女はほとんどそれを注意しないかのごとくに見えた。
「あなたは卑怯《ひきょう》です、徳義的に卑怯です。あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した料簡《りょうけん》さえあなたはすでに疑《うたぐ》っていらっしゃる。それがすでに卑怯です。が、それは問題じゃありません。あなたは他《ひと》の招待に応じておきながら、なぜ平生《ふだん》のように愉快にして下さる事ができないんです。あたしはあなたを招待したために恥を掻《か》いたも同じ事です。あなたはあたしの宅《うち》の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」
「侮辱を与えた覚はない」
「あります。言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」
「そんな立ち入った批評を受ける義務は僕にないよ」
「男
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