けた親類のものがそのうち二三人寄った。いずれまた来るからと云って帰ったのもあった。千代子は来る人ごとに宵子の突然な最後をくり返しくり返し語った。十二時過から御仙は通夜《つや》をする人のために、わざと置火燵《おきごたつ》を拵《こし》らえて室《へや》に入れたが、誰もあたるものはなかった。主人夫婦は無理に勧められて寝室へ退《しり》ぞいた。その後《あと》で千代子は幾度か短かくなった線香の煙を新らしく継《つ》いだ。雨はまだ降りやまなかった。夕方|芭蕉《ばしょう》に落ちた響はもう聞こえない代りに、亜鉛葺《トタンぶき》の廂《ひさし》にあたる音が、非常に淋しくて悲しい点滴《てんてき》を彼女の耳に絶えず送った。彼女はこの雨の中で、時々宵子の顔に当てた晒《さらし》を取っては啜泣《すすりなき》をしているうちに夜が明けた。
その日は女がみんなして宵子の経帷子《きょうかたびら》を縫った。百代子《ももよこ》が新たに内幸町から来たのと、ほかに懇意の家《うち》の細君が二人ほど見えたので、小さい袖《そで》や裾《すそ》が、方々の手に渡った。千代子は半紙と筆と硯《すずり》とを持って廻って、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》という六字を誰にも一枚ずつ書かした。「市《いっ》さんも書いて上げて下さい」と云って、須永《すなが》の前へ来た。「どうするんだい」と聞いた須永は、不思議そうに筆と紙を受取った。
「細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。後《あと》から六字ずつを短冊形《たんざくがた》に剪《き》って棺《かん》の中へ散らしにして入れるんですから」
皆《みん》な畏《かし》こまって六字の名号《みょうごう》を認《した》ためた。咲子は見ちゃ厭《いや》よと云いながら袖屏風《そでびょうぶ》をして曲りくねった字を書いた。十一になる男の子は僕は仮名で書くよと断わって、ナムアミダブツと電報のようにいくつも並べた。午過《ひるすぎ》になっていよいよ棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さしておやりな」と云った。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にして抱《だ》き起した。その背中には紫色《むらさきいろ》の斑点が一面に出ていた。着換が済むと御仙が小さい珠数《じゅず》を手にかけてやった。同じく小さい編笠《あみがさ》と藁草履《わらぞうり》を棺に入れた。昨日《きのう》の夕方まで穿《は》いていた赤い毛糸の足袋《たび》も入れた。その紐《ひも》の先につけた丸い珠《たま》のぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなのくれた玩具《おもちゃ》も足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿弥陀仏の短冊《たんざく》を雪のように振りかけた上へ葢《ふた》をして、白綸子《しろりんず》の被《おい》をした。
六
友引《ともびき》は善《よ》くないという御仙《おせん》の説で、葬式を一日延ばしたため、家《うち》の中は陰気な空気の裡《うち》に常よりは賑《にぎ》わった。七つになる嘉吉《かきち》という男の子が、いつもの陣太鼓《じんだいこ》を叩《たた》いて叱られた後《あと》、そっと千代子の傍《そば》へ来て、宵子《よいこ》さんはもう帰って来ないのと聞いた。須永《すなが》が笑いながら、明日《あした》は嘉吉さんも焼場へ持って行って、宵子さんといっしょに焼いてしまうつもりだと調戯《からか》うと、嘉吉はそんなつもりなんか僕|厭《いや》だぜと云いながら、大きな眼をくるくるさせて須永を見た。咲子《さきこ》は、御母さんわたしも明日《あした》御葬式に行きたいわと御仙にせびった。あたしもねと九つになる重子《しげこ》が頼んだ。御仙はようやく気がついたように、奥で田口夫婦と話をしていた夫を呼んで、「あなた、明日いらしって」と聞いた。
「行くよ。御前も行ってやるが好い」
「ええ、行く事にきめてます。小供には何を着せたらいいでしょう」
「紋付《もんつき》でいいじゃないか」
「でも余《あん》まり模様が派手だから」
「袴《はかま》を穿《は》けばいいよ。男の子は海軍服でたくさんだし。御前は黒紋付だろう。黒い帯は持ってるかい」
「持ってます」
「千代子、御前も持ってるなら喪服を着て供《とも》に立っておやり」
こんな世話を焼いた後で、松本はまた奥へ引返した。千代子もまた線香を上げに立った。棺《かん》の上を見ると、いつの間にか綺麗《きれい》な花環《はなわ》が載《の》せてあった。「いつ来たの」と傍《そば》にいる妹の百代《ももよ》に聞いた。百代は小さな声で「先刻《さっき》」と答えたが、「叔母さんが小供のだから、白い花だけでは淋《さみ》しいって、わざと赤いのを交《ま》ぜさしたんですって」と説明した。姉と妹はしばらくそこに並んで坐っていた。十分ばかりすると、千代子は百代の耳に口を付けて、「百代さんあなた宵子さんの死顔を見て」と聞いた。百代は「ええ」と首肯《うな》ずいた。
「いつ」
「ほら先刻《さっき》御棺に入れる時見たんじゃないの。なぜ」
千代子はそれを忘れていた。妹がもし見ないと云ったら、二人で棺の葢《ふた》をもう一遍開けようと思ったのである。「御止しなさいよ、怖《こわ》いから」と云って百代は首をふった。
晩には通夜僧《つやそう》が来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、三部経《さんぶきょう》がどうだの、和讃《わさん》がどうだのという変な話をしていた。その会話の中には親鸞上人《しんらんしょうにん》と蓮如上人《れんにょしょうにん》という名がたびたび出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と御布施《おふせ》を僧の前に並べて、もう宜《よろ》しいから御引取下さいと断《こと》わった。坊さんの帰った後《あと》で御仙がその理由《わけ》を聞くと、「何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのは嫌《きらい》だよ」とすましていた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。路端《みちばた》の人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように目送《もくそう》した。松本は白張《しらはり》の提灯《ちょうちん》や白木《しらき》の輿《こし》が嫌だと云って、宵子の棺を喪車に入れたのである。その喪車の周囲《ぐるり》に垂れた黒い幕が揺れるたびに、白綸子《しろりんず》の覆《おい》をした小さな棺の上に飾った花環がちらちら見えた。そこいらに遊んでいた子供が駆《か》け寄って来て、珍らしそうに車を覗《のぞ》き込んだ。車と行き逢った時、脱帽して過ぎた人もあった。
寺では読経《どきょう》も焼香も形式通り済んだ。千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙も何も出なかった。叔父叔母の顔を見てもこれといって憂《うれい》に鎖《とざ》された様子は見えなかった。焼香の時、重子が香《こう》をつまんで香炉《こうろ》の裏《うち》へ燻《くべ》るのを間違えて、灰を一撮《ひとつか》み取って、抹香《まっこう》の中へ打ち込んだ折には、おかしくなって吹き出したくらいである。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺につき添って火葬場へ廻ったので、千代子はほかのものといっしょにまた矢来《やらい》へ帰って来た。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日《きのう》一昨日《おととい》の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。
七
骨上《こつあげ》には御仙《おせん》と須永《すなが》と千代子とそれに平生《ふだん》宵子《よいこ》の守をしていた清《きよ》という下女がついて都合|四人《よつたり》で行った。柏木《かしわぎ》の停車場《ステーション》を下りると二丁ぐらいな所を、つい気がつかずに宅《うち》から車に乗って出たので時間はかえって長くかかった。火葬場の経験は千代子に取って生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色《けしき》も忘れ物を思い出したように嬉《うれ》しかった。眼に入るものは青い麦畠《むぎばたけ》と青い大根畠と常磐木《ときわぎ》の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々|後《うしろ》を振り返って、穴八幡《あなはちまん》だの諏訪《すわ》の森《もり》だのを千代子に教えた。車が暗いだらだら坂へ来た時、彼はまた小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子のために指《ゆびさ》した。それには弘法大師《こうぼうだいし》千五十年|供養塔《くようとう》と刻《きざ》んであった。その下に熊笹《くまざさ》の生い茂った吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋の袂《たもと》をさも田舎路《いなかみち》らしく見せていた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の変った小さい葉が一つずつ落ちて来た。それが空中で非常に早くきりきり舞う姿が鮮《あざ》やかに千代子の眼を刺戟《しげき》した。それが容易に地面の上へ落ちずに、いつまでも途中でひらひらするのも、彼女には眼新らしい現象であった。
火葬場は日当りの好い平地《ひらち》に南を受けて建てられているので、車を門内に引き入れた時、思ったより陽気な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云うと、郵便局の受付口みたような窓の中に坐っていた男が、鍵《かぎ》は御持ちでしょうねと聞いた。御仙は変な顔をして急に懐《ふところ》や帯の間を探り出した。
「とんだ事をしたよ。鍵を茶の間の用箪笥《ようだんす》の上へ置いたなり……」
「持って来なかったの。じゃ困るわね。まだ時間があるから急いで市《いっ》さんに取って来て貰うと好いわ」
二人の問答を後《うしろ》の方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものを袂《たもと》から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を窘《たし》なめた。
「市さん、あなた本当に悪《にく》らしい方《かた》ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ零《こぼ》すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気《のんき》な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚《おぼえ》があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母の傍《そば》へ来て座に着いた。須永も続いて這入《はい》って来た。そうして二人の向側《むこうがわ》にある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席を割《さ》いてやった。
四人が茶を呑《の》んで待ち合わしている間《あいだ》に、骨上《こつあげ》の連中が二三組見えた。最初のは田舎染《いなかじ》みた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多く利《き》かなかった。次には尻を絡《から》げた親子連《おやこづれ》が来た。活溌《かっぱつ》な声で、壺《つぼ》を下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には散髪《さんぱつ》に角帯を締《し》めた男とも女とも片のつかない盲者《めくら》が、紫の袴《はかま》を穿《は》いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、袂《たもと》から出した巻煙草《まきたばこ》を吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞと促《うな》がしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。
八
真鍮《しんちゅう》の掛札に何々殿と書いた並等《なみとう》の竈《かま》
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