書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。彼は最初の二三台を親の敵《かたき》でも覘《ねら》うように怖《こわ》い眼つきで吟味《ぎんみ》した後《あと》、少し心に余裕《よゆう》ができるに連れて、腹の中がだんだん気丈《きじょう》になって来た。彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見傚《みな》して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じように立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人《いちにん》は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴《シンボル》のごとく振り分ける分別盛《ふんべつざか》りの中年者《ちゅうねんもの》であった。そのうちでいつ出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
電車は入れ代り立ち代り彼の前にとまった。乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込もうとする、降りるものは権柄《けんぺい》ずくで上から伸《の》しかかって来る。敬太郎はどこの何物とも知れない男女《なんにょ》が聚《あつ》まったり散ったりするために、自分の前で無作法に演じ出す一分時《いっぷんじ》の争を何度となく見た。けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待っても出て来なかった。ことに依ると、もうとうに西の停留所から降りてしまったものではなかろうかと思うと、こうして役にも立たない人の顔ばかり見つめて、眼のちらちらするほど一つ所に立っているのは、随分馬鹿気た所作《しょさ》に見えて来る。敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のように夢中で費やした先刻《さっき》の二時間を、充分|須永《すなが》と打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、遥《はる》かに常識に適《かな》った遣口《やりくち》だと考え出した。彼がこの苦《にが》い気分を痛切に甞《な》めさせられる頃から空はだんだん光を失なって、眼に映る物の色が一面に蒼《あお》く沈んで来た。陰鬱《いんうつ》な冬の夕暮を補なう瓦斯《ガス》と電気の光がぽつぽつそこらの店硝子《みせガラス》を彩《いろ》どり始めた。ふと気がついて見ると、敬太郎から一間ばかりの所に、廂髪《ひさしがみ》に結《い》った一人の若い女が立っていた。電車の乗降《のりおり》が始まるたびに、彼は注意の余波《なごり》を自分の左右に払っていたつもりなので、いつどっちから歩き寄ったか分らない婦人を思わぬ近くに見た時は、何より先にまずその存在に驚ろかされた。
二十七
女は年に合わして地味なコートを引き摺《ず》るように長く着ていた。敬太郎《けいたろう》は若い人の肉を飾る華麗《はなやか》な色をその裏に想像した。女はまたわざとそれを世間から押し包むようにして立っていた。襦袢《じゅばん》の襟《えり》さえ羽二重《はぶたえ》の襟巻《えりまき》で隠していた。その羽二重の白いのが、夕暮の逼《せま》るに連れて、空気から浮き出して来るほかに、女は身の周囲《まわり》に何といって他《ひと》の注意を惹《ひ》くものを着けていなかった。けれども時節柄《じせつがら》に頓着《とんじゃく》なく、当人の好尚《このみ》を示したこの一色《ひといろ》が、敬太郎には何よりも際立《きわだ》って見えた。彼は光の抜けて行く寒い空の下で、不調和な異《い》な物に出逢った感じよりも、煤《すす》けた往来に冴々《さえざえ》しい一点を認めた気分になって女の頸《くび》の辺《あたり》を注意した。女は敬太郎の視線を正面《まとも》に受けた時、心持|身体《からだ》の向《むき》を変えた。それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、鬢《びん》から洩《も》れた毛を後《うしろ》へ掻きやる風をした。固《もと》より女の髪は綺麗《きれい》に揃《そろ》っていたのだから、敬太郎にはこの挙動が実《み》のない科《しな》としてのみ映ったのだが、その手を見た時彼はまた新たな注意を女から強いられた。
女は普通の日本の女性《にょしょう》のように絹の手袋を穿《は》めていなかった。きちりと合う山羊《やぎ》の革製ので、華奢《きゃしゃ》な指をつつましやかに包んでいた。それが色の着いた蝋《ろう》を薄く手の甲に流したと見えるほど、肉と革がしっくりくっついたなり、一筋の皺《しわ》も一分《いちぶ》の弛《たる》みも余していなかった。敬太郎は女の手を上げた時、この手袋が女の白い手頸《てくび》を三寸も深く隠しているのに気がついた。彼はそれぎり眼を転じてまた電車に向った。けれども乗降《のりおり》の一混雑が済んで、思う人が出て来ないと、また心に二三分の余裕《よゆう》ができるので、それを利用しようと待ち構えるほどの執着はなかったにせよ、電車の通り越した相間《あいま》相間には覚《さと》られないくらいの視力を使って常に女の方を注意していた。
始め彼はこの女を「本郷行」か「亀沢町行」に乗るのだろうと考えていた。ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押し潰《つぶ》されそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を怺《こら》えた方が差引|得《とく》になるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る素振《そぶり》を見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに傘《かさ》を広げる人のように、わざと彼の観察を避《よ》ける準備をした。そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく露骨《むきだし》に女の方を見るのを慎《つつ》しんでいた。がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は逡巡《しゅんじゅん》する気色《けしき》もなく、真正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を窓硝子《まどガラス》に着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの枝珊瑚《えださんご》の置物だのを眺《なが》め始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好意立《こういだて》をして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
女の容貌《ようぼう》は始めから大したものではなかった。真向《まむき》に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、晴々《はればれ》しい心持のする眸《ひとみ》を有《も》っていた。宝石商の電灯は今|硝子越《ガラスごし》に彼女《かのおんな》の鼻と、豊《ふっ》くらした頬の一部分と額とを照らして、斜《はす》かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪廓《りんかく》を与えた。彼はその輪廓と、長いコートに包まれた恰好《かっこう》のいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。
二十八
電車がまた二三台来た。そうして二三台共また敬太郎《けいたろう》の失望をくり返さして東へ去った。彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。五時はもうとうに過ぎていた。彼は今更《いまさら》気がついたように、頭の上に被《かぶ》さる黒い空を仰いで、苦々《にがにが》しく舌打《したうち》をした。これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、他《ひと》を騙《だま》すためにわざわざ拵《こし》らえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の洋杖《ステッキ》も、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく忌々《いまいま》しさの種になった。彼は暗い夜を欺《あざ》むいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも必竟《ひっきょう》自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。彼はそのくらい興を覚《さ》ましながらまだそのくらい寝惚《ねぼ》けた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。洋杖は自分の馬鹿を嘲《あざ》ける記念《かたみ》だから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また先刻《さっき》の若い女の存在に気がついた。女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。背が高いので、手足も人尋常《ひとなみ》より恰好《かっこう》よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心を惹《ひ》いた。女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。彼は素直に調子の揃《そろ》った五本の指と、しなやかな革《かわ》で堅く括《くく》られた手頸《てくび》と、手頸の袖口《そでくち》の間から微《かす》かに現われる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であったが、動かないで長く一所《ひとところ》に立ち尽すものに、寒さは辛《つら》く当った。女は心持ち顋《あご》を襟巻《えりまき》の中に埋《うず》めて、俯目勝《ふしめがち》にじっとしていた。敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かないようなこの眼遣《めづかい》の底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。彼が先刻から蚤取眼《のみとりまなこ》で、黒の中折帽を被《かぶ》った紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちに射《い》がけていたのではなかろうか。彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間|余《あまり》をここに過ごしたのではなかろうか。けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らの考《かんがえ》がなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を仕出《しで》かすか分らない人として何のために自分が覘《ねら》われるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所の後《うしろ》を西の方へ動いて行った。もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固く憚《はば》かった。けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、肝心《かんじん》の目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない硝子窓《ガラスまど》を覗《のぞ》いて、そこに飾ってある天鵞絨《びろうど》の襟《えり》の着いた女の子のマントを眺《なが》める風をしながら、そっと後《うしろ》を振り向いた。すると女は自分の背後にいるどころではなかった。延び上ってもいろいろな人が自分を追越すように後《あと》から後から来る陰になって、白い襟巻《えりまき》も長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、最少《もうすこ》し観察していたかった。彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという物数奇《ものずき》を起した。彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。そこの暗い陰に身を寄せるようにして窺《うかが》うと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。
二十九
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