田町まで来て電車に乗ろうとする途端《とたん》に、喫煙御断りという社則を思い出したので、また万世橋の方へ歩いて行った。彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たすつもりで、ゆっくりゆっくり足を運ばせながらなお須永の事を考えた。その須永はけっしていつものように単独には頭の中へは這入《はい》って来なかった。考えるたびにきっと後姿の女がちらちら跟《つ》いて来た。しまいに「本郷台町の三階から遠眼鏡《とおめがね》で世の中を覗《のぞ》いていて、浪漫的《ロマンてき》探険なんて気の利いた真似《まね》ができるものか」と須永から冷笑《ひや》かされたような心持がし出した。

        五

 彼は今日《こんにち》まで、俗にいう下町生活に昵懇《なじみ》も趣味も有《も》ち得ない男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜《くぐ》れない格子戸《こうしど》だの、三和土《たたき》の上から訳《わけ》もなくぶら下がっている鉄灯籠《かなどうろう》だの、上《あが》り框《がまち》の下を張り詰めた綺麗《きれい》に光る竹だの、杉だか何だか日光《ひ》が透《とお》って赤く見えるほど薄っぺらな障子《しょうじ》の腰だ
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