に過ぎないと思われた。僕は市蔵にそうじゃ無いかと聞いた。市蔵はそうだと答えた。僕は彼にどうしても母を満足させる気はないかと尋ねた。彼は何事によらず母を満足させたいのは山々であると答えた。けれども千代子を貰《もら》おうとはけっして云わなかった。意地ずくで貰わないのかと聞いたら、あるいはそうかも知れないと云い切った。もし田口がやっても好いと云い、千代子が来ても好いと云ったらどうだと念を押したら、市蔵は返事をしずに黙って僕の顔を眺《なが》めていた。僕は彼のこの顔を見ると、けっして話を先へ進める気になれないのである。畏怖《いふ》というと仰山《ぎょうさん》すぎるし、同情というとまるで憐《あわ》れっぽく聞こえるし、この顔から受ける僕の心持は、何と云っていいかほとんど分らないが、永久に相手を諦《あき》らめてしまわなければならない絶望に、ある凄味《すごみ》と優《やさ》し味《み》をつけ加えた特殊の表情であった。
 市蔵はしばらくして自分はなぜこう人に嫌《きら》われるんだろうと突然意外な述懐をした。僕はその時ならないのと平生の市蔵に似合しからないのとで驚ろかされた。なぜそんな愚痴《ぐち》を零《こぼ》すのか
前へ 次へ
全462ページ中421ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング