アー》を開けると、彼は咲子の机の前に坐《すわ》って、女の雑誌の口絵に出ている、ある美人の写真を眺めていた。その時彼は僕を顧《かえり》みて、今こういう美人を発見して、先刻《さっき》から十分ばかり相対しているところだと告げた。彼はその顔が眼の前にある間、頭の中の苦痛を忘れて自《おのず》から愉快になるのだそうである。僕はさっそくどこの何者の令嬢かと尋ねた。すると不思議にも彼は写真の下に書いてある女の名前をまだ読まずにいた。僕は彼を迂闊《うかつ》だと云った。それほど気に入った顔ならなぜ名前から先に頭に入れないかと尋ねた。時と場合によれば、細君として申し受ける事も不可能でないと僕は思ったからである。しかるに彼はまた何の必要があって姓名や住所を記憶するかと云った風の眼使《めづかい》をして僕の注意を怪しんだ。
 つまり僕は飽《あ》くまでも写真を実物の代表として眺《なが》め、彼は写真をただの写真として眺めていたのである。もし写真の背後に、本当の位置や身分や教育や性情がつけ加わって、紙の上の肖像を活《い》かしにかかったなら、彼はかえって気に入ったその顔まで併《あわ》せて打ち棄ててしまったかも知れない。こ
前へ 次へ
全462ページ中418ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング