かった。
 一時間ばかりして僕はむしろ疲れた顔を母からも千代子からも怪しまれに戻って来た。母はどこへ行ったのと聞いたが、後《あと》から、色沢《いろつや》が好くないよ、どうかおしかいと尋ねた。
「昨夕《ゆうべ》好《よ》く寝られなかったんでしょう」
 僕は千代子のこの言葉に対して答うべき術《すべ》を知らなかった。実を云うと、昂然《こうぜん》としてなに好く寝られたよと云いたかったのである。不幸にして僕はそれほどの技巧家《アーチスト》でなかった。と云って、正直に寝られなかったと自白するには余り自尊心が強過ぎた。僕はついに何も答えなかった。
 三人が同じ食卓で朝飯《あさめし》を済ますや否《いな》や、母が昨日涼しいうちにと頼んでおいた髪結《かみい》が来た。洗《あら》い立《たて》の白い胸掛をかけて、敷居越《しきいごし》に手を突いた彼女は、御帰りなさいましと親しい挨拶《あいさつ》をした。彼女はこの職業に共通なめでたい口ぶりを有《も》っていた。それを得意に使って、内気な母に避暑を誇の種に話させる機会を一句ごとに作った。母は満足らしくも見えたが、そう蝶蝶《ちょうちょう》しくは饒舌《しゃべ》り得なかった。髪
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