うと思うんです。もっとも僕の方で罷めなけりゃ向うで罷めるだけなんだからね。三年越と云やあ僕にしちゃ長い方でさあ」
 敬太郎は罷めるが好かろうとも罷めないが好かろうとも云わなかった。自分が罷めた経験も罷められた閲歴もないので、他《ひと》の進退などはどうでも構わないような気がした。ただ話が理に落ちて面白くないという自覚だけあった。森本はそれと察したか、急に調子を易《か》えて、世間話を快活に十分ほどした後《あと》で、「いやどうも御馳走《ごちそう》でした。――とにかく田川さん若いうちの事ですよ、何をやるのも」と、あたかも自分が五十ぐらいの老人のようなことを云って帰って行った。
 それから一週間ばかりの間、田川は落ちついて森本と話す機会を有《も》たなかったが、二人共同じ下宿にいるのだから、朝か晩に彼の姿を認めない事はほとんど稀《まれ》であった。顔を洗う所などで落ち合う時、敬太郎は彼の着ている黒襟《くろえり》の掛ったドテラが常に目についた。彼はまた襟開《えりあき》の広い新調の背広《せびろ》を着て、妙な洋杖《ステッキ》を突いて、役所から帰るとよく出て行った。その洋杖が土間の瀬戸物製の傘入《かさいれ》
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