と云っても差支《さしつかえ》ない。まことに気の毒であるが、それでも母は生活の満足をこの一点にのみ集注しているのだから、僕さえ充分の孝行ができれば、これに越した彼女の喜《よろこび》はないのである。が、もしその僕が彼女の意に背《そむ》く事が多かったら、これほどの不幸はまた彼女に取ってけっしてない訳になる。それを思うと僕は非常に心苦しい事がある。
 思い出したからここでちょっと云うが、僕は生れてからの一人息子ではない。子供の時分に妙《たえ》ちゃんという妹《いもと》と毎日遊んだ事を覚えている。その妹は大きな模様のある被布《ひふ》を平生《ふだん》着て、人形のように髪を切り下げていた。そうして僕の事を常に市蔵ちゃん市蔵ちゃんと云って、兄さんとはけっして呼ばなかった。この妹は父の亡《な》くなる何年前かに実扶的里亜《ジフテリア》で死んでしまった。その頃は血清注射がまだ発明されない時分だったので、治療も大変に困難だったのだろう。僕は固《もと》より実扶的里亜と云う名前さえ知らなかった。宅《うち》へ見舞に来た松本に、御前も実扶的里亜かと調戯《からか》われて、うんそうじゃないよ僕軍人だよと答えたのを今だに忘れ
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