って昨夕《ゆうべ》人殺しをするための客を出刃《でば》ぐるみ乗せていっさんに馳《か》けたのかも知れないと考えたり、または追手《おって》の思わくとは反対の方角へ走る汽車の時間に間に合うように、美くしい女を幌《ほろ》の中に隠して、どこかの停車場《ステーション》へ飛ばしたのかも分らないと思ったりして、一人で怖《こわ》がるやら、面白がるやらしきりに喜こんでいた。
 そんな想像を重ねるにつけ、これほど込み入った世の中だから、たとい自分の推測通りとまで行かなくっても、どこか尋常と変った新らしい調子を、彼の神経にはっと響かせ得るような事件に、一度ぐらいは出会《であ》って然《しか》るべきはずだという考えが自然と起ってきた。ところが彼の生活は学校を出て以来ただ電車に乗るのと、紹介状を貰って知らない人を訪問するくらいのもので、その他に何といって取り立てて云うべきほどの小説は一つもなかった。彼は毎日見る下宿の下女の顔に飽《あ》き果てた。毎日食う下宿の菜《さい》にも飽き果てた。せめてこの単調を破るために、満鉄の方ができるとか、朝鮮の方が纏《まと》まるとかすれば、まだ衣食の途《みち》以外に、幾分かの刺戟《しげき》
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