たので、彼はその後護謨の護の字も口にしなくなってしまったのである。
五
けれども彼の異常に対する嗜欲《しよく》はなかなかこれくらいの事で冷却しそうには見えなかった。彼は都の真中にいて、遠くの人や国を想像の夢に上《のぼ》して楽しんでいるばかりでなく、毎日電車の中で乗り合せる普通の女だの、または散歩の道すがら行き逢う実際の男だのを見てさえ、ことごとく尋常以上に奇《き》なあるものを、マントの裏かコートの袖《そで》に忍ばしていはしないだろうかと考える。そうしてどうかこのマントやコートを引《ひ》っくり返してその奇なところをただ一目《ひとめ》で好いからちらりと見た上、後は知らん顔をして済ましていたいような気になる。
敬太郎《けいたろう》のこの傾向は、彼がまだ高等学校にいた時分、英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜剌比亜物語《しんアラビヤものがたり》という書物を読ました頃からだんだん頭を持ち上げ出したように思われる。それまで彼は大《だい》の英語嫌《えいごぎらい》であったのに、この書物を読むようになってから、一回も下読を怠らずに、あてられさえすれば、必ず起立して訳を付け
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