て来た。敬太郎はそっと立って目立たないように階段《はしごだん》の上《あが》り口《くち》までおとなしく足を運ぶと、そこに立っていた給仕が大きな声で、「御立あち」と下へ知らせた。同時に敬太郎は先刻《さっき》給仕に預けた洋杖《ステッキ》を取って来るのを忘れた事に気がついた。その洋杖はいまだに室《へや》の隅《すみ》に置いてある帽子掛の下に突き込まれたまま、女の長いコートの裾《すそ》に隠されていた。敬太郎は室の中にいる男女《なんにょ》を憚《はば》かるように、抜き足で後戻りをして、静かにそれを取り出した。彼が蛇の頭を握った時、すべすべした羽二重《はぶたえ》の裏と、柔かい外套《がいとう》の裏が、優しく手の甲に触れるのを彼は感じた。彼はまた爪先で歩かないばかりに気をつけて階段の上まで来ると、そこから急に調子を変えて、とん、とん、とんと刻《きざ》み足《あし》に下へ駆《か》け下りた。表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電灯の光を後《うしろ》にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れよう
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