いよ。少し用があるから」
「どんな用?」
「どんな用って、大事な用さ。なかなかそう安くは話せない用だ」
「あら好くってよ。妾《あたし》ちゃんと知ってるわ。――さんざっぱら他《ひと》を待たした癖に」
 女は少し拗《す》ねたような物の云い方をした。男は四辺《あたり》に遠慮する風で、低く笑った。二人の会話はそれぎり静かになった。やがて思い出したように男の声がした。
「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」
「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあ直《じき》じゃありませんか」
 女が勧めている事も男が躊躇《ちゅうちょ》している事も敬太郎にはよく解った。けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その肝心《かんじん》な目的地になると、彼には何らの観念もなかった。

        三十三

 もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、敬太郎《けいたろう》は自分の前に残された皿の上の肉刀《ナイフ》と、その傍に転がった赤い仁参《にんじん》の一切《ひときれ》を眺《なが》めていた。女はなお男を強《し》いる事をやめない様子であった。男はそのたびに何とかかとか云って逃《のが》れていた。しか
前へ 次へ
全462ページ中176ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング