三十一

「だって余《あん》まりだわ。こんなに人を待たしておいて」
 敬太郎《けいたろう》の耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち塞《ふさ》がりそうにした。敬太郎の方でも、後《うしろ》から向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければ跋《ばつ》が悪くなった。彼は二人の後戻りを恐れて、急に傍《そば》にあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。そうしてそこに並んでいる大きな硝子壺《ガラスつぼ》の中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。男は外套《がいとう》の中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身体《からだ》を横にして、下向きに右手で持ったものを店の灯《ひ》に映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」
「遅いわあなた、六時なら。妾《あたし》もう少しで帰《かい》るところよ」
「どうも御気の毒さま」
 二人はまた歩き
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