ったが、躊躇《ちゅうちょ》すると思いの外、あたかも自分の部屋へでも這入るような無雑作《むぞうさ》な態度で、敬太郎の後に跟《つ》いて来た。そうして、
「あなたの室《へや》から見た景色はいつ見ても好いね」と自分で窓の障子を開けながら、手摺付《てすりつき》の縁板の上へ濡手拭《ぬれてぬぐい》を置いた。

        三

 敬太郎《けいたろう》はこの瘠《や》せながら大した病気にも罹《かか》らないで、毎日新橋の停車場《ステーション》へ行く男について、平生から一種の好奇心を有《も》っていた。彼はもう三十以上である。それでいまだに一人で下宿|住居《ずまい》をして停車場へ通勤している。しかし停車場で何の係りをして、どんな事務を取扱っているのか、ついぞ当人に聞いた事もなければ、また向うから話した試《ためし》もないので、敬太郎には一切がX《エックス》である。たまたま人を送って停車場へ行く場合もあるが、そんな時にはつい混雑に取《と》り紛《まぎ》れて、停車場と森本とをいっしょに考えるほどの余裕《よゆう》も出ず、そうかと云って、森本の方から自己の存在を思い起させるように、敬太郎の眼につくべき所へ顔を出す機会
前へ 次へ
全462ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング