その当時十五六の少年に過ぎなかったのである。
「何でも島田に結《い》ってた事がある」
 このくらいよりほかに要領を得た返事は一つもできないので、僕もはなはだ残念に思った。市蔵はようやく諦《あき》らめたという眼つきをして、一番しまいに、「じゃせめて寺だけ教えてくれませんか。母がどこへ埋《うま》っているんだか、それだけでも知っておきたいと思いますから」と云った。けれども御弓の菩提所《ぼだいじ》を僕が知ろうはずがなかった。僕は呻吟《しんぎん》しながら、已《やむ》を得なければ姉に聞くよりほかに仕方あるまいと答えた。
「御母さんよりほかに知ってるものは無いでしょうか」
「まああるまいね」
「じゃ分らないでもよござんす」
 僕は市蔵に対して気の毒なようなまたすまないような心持がした。彼はしばらく庭の方を向いて、麗《うらら》かな日脚《ひあし》の中に咲く大きな椿《つばき》を眺《なが》めていたが、やがて視線をもとに戻した。
「御母さんが是非千代ちゃんを貰えというのも、やっぱり血統上の考えから、身縁《みより》のものを僕の嫁にしたいという意味なんでしょうね」
「全くそこだ。ほかに何にもないんだ」
 市蔵はそれでは貰おうとも云わなかった。僕もそれなら貰うかとも聞かなかった。

        七

 この会見は僕にとって美くしい経験の一つであった。双方で腹蔵なくすべてを打ち明け合う事ができたという点において、いまだに僕の貧しい過去を飾っている。相手の市蔵から見ても、あるいは生れて始めての慰藉《いしゃ》ではなかったかと思う。とにかく彼が帰ったあとの僕の頭には、善い功徳《くどく》を施こしたという愉快な感じが残ったのである。
「万事おれが引き受けてやるから心配しないがいい」
 僕は彼を玄関に送り出しながら、最後にこういう言葉を彼の背に暖かくかけてやった。その代り姉に会見の結果を報告する時ははなはだまずかった。已《やむ》を得ないから、卒業して頭に暇さえできれば、はっきりどうにか片をつけると云っているから、それまで待つが好かろう、今かれこれ突っつくのは試験の邪魔になるだけだからと、姉が聞いても無理のないところで、ひとまず宥《なだ》めておいた。
 僕は同時に事情を田口に話して、なるべく市蔵の卒業前に千代子の縁談が運ぶように工夫《くふう》した。委細を聞いた田口の口振は平生の通り如才なくかつ無雑作《むぞうさ》であった。彼は僕の注意がなくっても、その辺は心得ているつもりだと答えた。
「けれども必竟は本人のために嫁入《かたづ》けるんで、(そう申しちゃ角が立つが、)姉さんや市蔵の便宜《べんぎ》のために、千代子の結婚を無理にくり上げたり、くり延べたりする訳にも行かないものだから」
「ごもっともだ」と僕は承認せざるを得なかった。僕は元来田口家と親類並の交際《つきあい》をしているにはいるが、その実彼らの娘の縁談に、進んで口を出したこともなければ、また向うから相談を受けた例《ためし》も有《も》たないのである。それで今日《こんにち》まで千代子にどんな候補者があったのか、間接にさえほとんどその噂《うわさ》を耳にしなかった。ただ前の年鎌倉の避暑地とかで市蔵が会って、気を悪くしたという高木だけは、市蔵からも千代子からも名前を教えられて覚えていた。僕は突然ながら田口にその男はどうなったかと尋ねた。田口は愛嬌《あいきょう》らしく笑って、高木は始めから候補者として打って出たのではないと告げた。けれども相当の身分と教育があって独身の男なら、誰でも候補者になり得る権利は有っているのだから、候補者でないとはけっして断言できないとも告げた。この曖昧《あいまい》な男の事を僕はなお委《くわ》しく聞いて見て、彼が今|上海《シャンハイ》にいる事を確かめた。上海にいるけれどもいつ帰るか分らないという事も確かめた。彼と千代子との間柄はその後何らの発展も見ないが、信書の往復はいまだに絶えない、そうしてその信書はきっと父母《ふぼ》が眼を通した上で本人の手に落つるという条件つきの往復であるという事まで確めた。僕は一も二もなく、千代子には其男《それ》が好いじゃないかと云った。田口はまだどこかに慾があるのか、または別に考《かんがえ》を有っているのか、そうするつもりだとは明言しなかった。高木のいかなる人物かをまるで解しない僕が、それ以上勧める権利もないから、僕はついそのままにして引き取った。
 僕と市蔵はその後久しく会わなかった。久しくと云ったところでわずか一カ月半ばかりの時日に過ぎないのだが、僕には卒業試験を眼の前に控えながら、家庭問題に屈托《くったく》しなければならない彼の事が非常に気にかかった。僕はそっと姉を訪《たず》ねてそれとなく彼の近況を探って見た。姉は平気で、何でもだいぶ忙がしそうだよ、卒業するんだからそのはずさ
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