に握らせられるだろうと待ち受けたまま、二人して非常に恐れていた。僕はとうとう彼の恐れるものの正体を取り出して、彼の前に他意なく並べてやったのである。
 僕はその時の問答を一々くり返して今君に告げる勇気に乏しい。僕には固《もと》よりそれほどの大事件とも始から見えず、またなるべく平気を装う必要から、つまり何でもない事のように話したのだが、市蔵はそれを命がけの報知として、必死の緊張の下《もと》に受けたからである。ただ前の続きとして、事実だけを一口に約《つづ》めて云うと、彼は姉の子でなくって、小間使の腹から生れたのである。僕自身の家に起った事でない上に、二十五年以上も経《た》った昔の話だから、僕も詳しい顛末《てんまつ》は知ろうはずがないが、何しろその小間使が須永の種を宿した時、姉は相当の金をやって彼女に暇を取らしたのだそうである。それから宿へ下《さが》った妊婦が男の子を生んだという報知を待って、また子供だけ引き取って表向《おもてむき》自分の子として養育したのだそうである。これは姉が須永に対する義理からでもあろうが、一つは自分に子のできないのを苦にしていた矢先だから、本気に吾子として愛《いつく》しむ考も無論手伝ったに違ない。実際彼らは君の見るごとく、また吾々《われわれ》の見るごとく、最も親しい親子として今日《こんにち》まで発展して来たのだから、御互に事情を明《あか》し合ったところで毫《ごう》も差支《さしつかえ》の起る訳がない。僕に云わせると、世間にありがちな反《そり》の合《あわ》ない本当の親子よりもどのくらい肩身が広いか分りゃしない。二人だって、そうと知った上で、今までの睦《むつ》まじさを回顧した時の方が、どんなに愉快が多いだろう。少なくとも僕ならそうだ。それで僕は市蔵のために特にこの美くしい点を力のあらん限り彩《いろど》る事を怠《おこた》らなかった。

        六

「おれはそう思うんだ。だから少しも隠す必要を認めていない。御前だって健全な精神を持っているなら、おれと同じように思うべきはずじゃないか。もしそう思う事ができないというなら、それがすなわち御前の僻《ひが》みだ。解ったかな」
「解りました。善《よ》く解りました」と市蔵が答えた。僕は「解ったらそれで好い、もうその問題についてかれこれというのは止《よ》しにしようよ」と云った。
「もう止します。もうけっしてこの事について、あなたを煩《わず》らわす日は来ないでしょう。なるほどあなたのおっしゃる通り僕は僻んだ解釈ばかりしていたのです。僕はあなたの御話を聞くまでは非常に怖《こわ》かったです。胸の肉が縮《ちぢ》まるほど怖かったです。けれども御話を聞いてすべてが明白になったら、かえって安心して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。その代り何だか急に心細くなりました。淋《さび》しいです。世の中にたった一人立っているような気がします」
「だって御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。おれだって今までのおれだよ。誰も御前に対して変るものはありゃしないんだよ。神経を起しちゃいけない」
「神経は起さなくっても淋しいんだから仕方がありません。僕はこれから宅《うち》へ帰って母の顔を見るときっと泣くにきまっています。今からその時の涙を予想しても淋《さむ》しくってたまりません」
「御母さんには黙っている方がよかろう」
「無論話しゃしません。話したら母がどんな苦しい顔をするか分りません」
 二人は黙然《もくねん》として相対した。僕は手持無沙汰《てもちぶさた》に煙草盆《たばこぼん》の灰吹《はいふき》を叩いた。市蔵はうつむいて袴《はかま》の膝《ひざ》を見つめていた。やがて彼は淋《さみ》しい顔を上げた。
「もう一つ伺っておきたい事がありますが、聞いて下さいますか」
「おれの知っている事なら何でも話して上げる」
「僕を生んだ母は今どこにいるんです」
 彼の実の母は、彼を生むと間もなく死んでしまったのである。それは産後の肥立《ひだち》が悪かったせいだとも云い、または別の病《やまい》だとも聞いているが、これも詳しい話をしてやるほどの材料に欠乏した僕の記憶では、とうてい餓《う》えた彼の眼を静めるに足りなかった。彼の生母《せいぼ》の最後の運命に関する僕の話は、わずか二三分で尽きてしまった。彼は遺憾《いかん》な顔をして彼女の名前を聞いた。幸《さいわい》にして僕は御弓《おゆみ》という古風な名を忘れずにいた。彼は次に死んだ時の彼女の年齢《とし》を問うた。僕はその点に関して、何という確《しか》とした知識を有《も》っていなかった。彼は最後に、彼の宅《うち》に奉公していた時分の彼女に会った事があるかと尋ねた。僕はあると答えた。彼はどんな女だと聞き返した。気の毒にも僕の記憶はすこぶる朦朧《もうろう》としていた。事実僕は
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