って、最初は不思議に眺《なが》めていたが、だんだん近くなるに従がって、それが薄い雨除《レインコート》である事に気がついた。その時叔父が突然、市《いっ》さんヨットに乗ってそこいらを遊んで歩くのも面白いだろうねと云ったので、僕は急に気がついたように高木から眼を転じて脚《あし》の下を見た。すると磯《いそ》に近い所に、真白に塗った空船《からぶね》が一|艘《そう》、静かな波の上に浮いていた。糠雨《ぬかあめ》[#「糠雨」は底本では「糖雨」]とまでも行かない細かいものがなお降りやまないので、海は一面に暈《ぼか》されて、平生《いつも》なら手に取るように見える向う側の絶壁の樹も岩も、ほとんど一色《ひといろ》に眺《なが》められた。そのうち四人《よつたり》はようやく僕らの傍《そば》まで来た。
「どうも御待たせ申しまして、実は髭《ひげ》を剃《す》っていたものだから、途中でやめる訳にも行かず……」と高木は叔父の顔を見るや否や云訳《いいわけ》をした。
「えらい物を着込んで暑かありませんか」と叔父が聞いた。
「暑くったって脱ぐ訳に行かないのよ。上はハイカラでも下は蛮殻《ばんから》なんだから」と千代子が笑った。高木は雨外套《レインコート》の下に、直《じか》に半袖《はんそで》の薄い襯衣《シャツ》を着て、変な半洋袴《はんズボン》から余った脛《すね》を丸出しにして、黒足袋《くろたび》に俎下駄《まないたげた》を引っかけていた。彼はこの通りと雨外套の下を僕らに示した上、日本へ帰ると服装が自由で貴女《レデー》の前でも気兼《きがね》がなくって好いと云っていた。
 一同がぞろぞろ揃《そろ》って道幅の六尺ばかりな汚苦《むさくる》しい漁村に這入《はい》ると、一種不快な臭《におい》がみんなの鼻を撲《う》った。高木は隠袋《ポッケット》から白い手巾《ハンケチ》を出して短かい髭の上を掩《おお》った。叔父は突然そこに立って僕らを見ていた子供に、西の者で南の方から養子に来たものの宅《うち》はどこだと奇体な質問を掛けた。子供は知らないと云った。僕は千代子に何でそんな妙な聞き方をするのかと尋ねた。昨夕《ゆうべ》聞き合せに人をやった家《うち》の主人が云うには、名前は忘れたからこれこれの男と云って探して歩けば分ると教えたからだと千代子が話して聞かした時、僕はこの呑気《のんき》な教え方と、同じく呑気な聞き方を、いかにも余裕なくこせついている自分と比べて見て、妙に羨《うらや》ましく思った。
「それで分るんでしょうか」と高木が不思議な顔をした。
「分ったらよっぽど奇体だわね」と千代子が笑った。
「何大丈夫分るよ」と叔父が受合った。
 吾一は面白半分人の顔さえ見れば、西のもので南の方から養子に来たものの宅はどこだと聞いては、そのたびにみんなを笑わした。一番しまいに、編笠《あみがさ》を被《かぶ》って白い手甲《てっこう》と脚袢《きゃはん》を着けた月琴弾《げっきんひき》の若い女の休んでいる汚ない茶店の婆さんに同じ問《とい》をかけたら、婆さんは案外にもすぐそこだと容易《たやす》く教えてくれたので、みんながまた手を拍《う》って笑った。それは往来から山手の方へ三級ばかりに仕切られた石段を登り切った小高い所にある小さい藁葺《わらぶき》の家であった。

        二十二

 この細い石段を思い思いの服装《なり》をした六人が前後してぞろぞろ登る姿は、傍《はた》で見ていたら定めし変なものだったろうと思う。その上六人のうちで、これから何をするか明瞭《はっきり》した考を有《も》っていたものは誰もないのだからはなはだ気楽である。肝心《かんじん》の叔父さえただ船に乗る事を知っているだけで、後は網だか釣だか、またどこまで漕《こ》いで出るのかいっこう弁別《わきま》えないらしかった。百代子の後《あと》から足の力で擦《す》り減《へ》らされて凹みの多くなった石段を踏んで行く僕はこんな無意味な行動に、己《おの》れを委《ゆだ》ねて悔いないところを、避暑の趣《おもむき》とでも云うのかと思いつつ上《のぼ》った。同時にこの無意味な行動のうちに、意味ある劇の大切な一幕が、ある男とある女の間に暗《あん》に演ぜられつつあるのでは無かろうかと疑ぐった。そうしてその一幕の中で、自分の務《つと》めなければならない役割がもしあるとすれば、穏《おだや》かな顔をした運命に、軽く翻弄《ほんろう》される役割よりほかにあるまいと考えた。最後に何事も打算しないでただ無雑作《むぞうさ》にやって除《の》ける叔父が、人に気のつかないうちに、この幕を完成するとしたら、彼こそ比類のない巧妙な手際《てぎわ》を有《も》った作者と云わなければなるまいという気を起した。僕の頭にこういう影が射した時、すぐ後《あと》から跟《つ》いて上《あが》って来る高木が、これじゃ暑くってたまらない、御免蒙《
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