をくり返した。しまいに最後の審判者たる彼の父の意見を必要と認めたものか、まだ寝ている叔父をとうとう呼び起した。叔父は天気などはどうでも好いと云ったような眠たい眼をして、空と海を一応見渡した上、なにこの模様なら今にきっと晴れるよと云った。吾一はそれで安心したらしかったが、千代子は当《あて》にならない無責任な天気予報だから心配だと云って僕の顔を見た。僕は何とも云えなかった。叔父は、なに大丈夫大丈夫と受合って風呂場《ふろば》の方へ行った。
 食事を済ます頃から霧のような雨が降り出した。それでも風がないので、海の上は平生よりもかえって穏《おだ》やかに見えた。あいにくな天気なので人の好い母はみんなに気の毒がった。叔母は今にきっと本降になるから今日は止したが好かろうと注意した。けれども若いものはことごとく行く方を主張した。叔父はじゃ御婆《おばあ》さんだけ残して、若いものが揃《そろ》って出かける事にしようと云った。すると叔母が、では御爺《おじい》さんはどっちになさるのとわざと叔父に聞いて、みんなを笑わした。
「今日はこれでも若いものの部だよ」
 叔父はこの言葉を証拠立《しょうこだ》てるためだか何だか、さっそく立って浴衣《ゆかた》の尻を端折《はしょ》って下へ降りた。姉弟《きょうだい》三人もそのままの姿で縁から降りた。
「御前達も尻を捲《まく》るが好い」
「厭《いや》な事」
 僕は山賊のような毛脛《けずね》を露出《むきだ》しにした叔父と、静御前《しずかごぜん》の笠《かさ》に似た恰好《かっこう》の麦藁帽《むぎわらぼう》を被《かぶ》った女二人と、黒い兵児帯《へこおび》をこま結びにした弟を、縁の上から見下して、全く都離れのした不思議な団体のごとく眺《なが》めた。
「市《いっ》さんがまた何か悪口を云おうと思って見ている」と百代子が薄笑いをしながら僕の顔を見た。
「早く降りていらっしゃい」と千代子が叱るように云った。
「市さんに悪い下駄《げた》を貸して上げるが好い」と叔父が注意した。
 僕は一も二もなく降りたが、約束のある高木が来ないので、それがまた一つの問題になった。おおかたこの天気だから見合わしているのだろうと云うのが、みんなの意見なので、僕らがそろそろ歩いて行く間に、吾一が馳足《かけあし》で迎《むかえ》に行って連れて来る事にした。
 叔父は例の調子でしきりに僕に話しかけた。僕も相手になって歩調を合せた。そのうちに、男の足だものだから、いつの間にか姉妹《きょうだい》を乗り越した。僕は一度振り返って見たが、二人は後《おく》れた事にいっこう頓着《とんじゃく》しない様子で、毫《ごう》も追いつこうとする努力を示さなかった。僕にはそれがわざと後《あと》から来る高木を待ち合せるためのようにしか取れなかった。それは誘った人に対する礼儀として、彼らの取るべき当然の所作《しょさ》だったのだろう。しかしその時の僕にはそう思えなかった。そう思う余地があっても、そうは感ぜられなかった。早く来いという合図をしようという考で振り向いた僕は、合図を止《や》めてまた叔父と歩き出した。そうしてそのまま小坪《こつぼ》へ這入《はい》る入口の岬《みさき》の所まで来た。そこは海へ出張《でば》った山の裾《すそ》を、人の通れるだけの狭い幅《はば》に削《けず》って、ぐるりと向う側へ廻り込まれるようにした坂道であった。叔父は一番高い坂の角まで来てとまった。

        二十一

 彼は突然彼の体格に相応した大きな声を出して姉妹を呼んだ。自白するが、僕はそれまでに何度も後《うしろ》を振り返って見ようとしたのである。けれども気が咎《とが》めると云うのか、自尊心が許さないと云うのか、振り向こうとするごとに、首が猪《いのしし》のように堅くなって後へ回らなかったのである。
 見ると二人の姿はまだ一町ほど下にあった。そうしてそのすぐ後に高木と吾一が続いていた。叔父が遠慮のない大きな声を出して、おおいと呼んだ時、姉妹は同時に僕らを見上げたが、千代子はすぐ後にいる高木の方を向いた。すると高木は被《かぶ》っていた麦藁帽《むぎわらぼう》を右の手に取って、僕らを目当にしきりに振って見せた。けれども四人のうちで声を出して叔父に応じたのはただ吾一だけであった。彼はまた学校で号令の稽古《けいこ》でもしたものと見えて、海と崖《がけ》に反響するような答と共に両手を一度に頭の上に差し上げた。
 叔父と僕は崖の鼻に立って彼らの近寄るのを待った。彼らは叔父に呼ばれた後《のち》も呼ばれない前と同じ遅い歩調で、何か話しながら上《あが》って来た。僕にはそれが尋常でなくって、大いにふざけているように見えた。高木は茶色のだぶだぶした外套《がいとう》のようなものを着て時々|隠袋《ポッケット》へ手を入れた。この暑いのにまさか外套は着られまいと思
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