がかかるのも厭《いと》わず平気でやっていたが、しだいに僕の好奇心を挑発《ちょうはつ》するような返事や質問が千代子の口から出て来るので、僕は曲《こご》んだまま、おいちょいとそれを御貸《おかし》と声をかけて左手を真直《まっすぐ》に千代子の方へ差し伸べた。千代子は笑いながら否々《いやいや》をして見せた。僕はさらに姿勢を正しくして、受話器を彼女の手から奪おうとした。彼女はけっしてそれを離さなかった。取ろうとする取らせまいとする争が二人の間に起った時、彼女は手早く電話を切った。そうして大きな声をあげて笑い出した。――

        十一

 こういう光景がもし今より一年前に起ったならと僕はその後《ご》何遍もくり返しくり返し思った。そう思うたびに、もう遅過ぎる、時機はすでに去ったと運命から宣告されるような気がした。今からでもこういう光景を二度三度と重ねる機会は捉《つら》まえられるではないかと、同じ運命が暗に僕を唆《そそ》のかす日もあった。なるほど二人の情愛を互いに反射させ合うためにのみ眼の光を使う手段を憚《はば》からなかったなら、千代子と僕とはその日を基点として出立しても、今頃は人間の利害で割《さ》く事のできない愛に陥《おちい》っていたかも知れない。ただ僕はそれと反対の方針を取ったのである。
 田口夫婦の意向や僕の母の希望は、他人の入智慧《いれぢえ》同様に意味の少ないものとして、単に彼女と僕を裸にした生れつきだけを比較すると、僕らはとてもいっしょになる見込のないものと僕は平生から信じていた。これはなぜと聞かれても満足の行くように答弁ができないかも知れない。僕は人に説明するためにそう信じているのでないから。僕はかつて文学好のある友達からダヌンチオと一少女の話を聞いた事がある。ダヌンチオというのは今の以太利《イタリア》で一番有名な小説家だそうだから、僕の友達の主意は無論彼の勢力を僕に紹介するつもりだったのだろうが、僕にはそこへ引合に出された少女の方が彼よりも遥《はる》かに興味が多かった。その話はこうである。――
 ある時ダヌンチオが招待を受けてある会合の席へ出た。文学者を国家の装飾のようにもてはやす西洋の事だから、ダヌンチオはその席に群《むら》がるすべての人から多大の尊敬と愛嬌《あいきょう》をもって偉人のごとく取扱かわれた。彼が満堂の注意を一身に集めて、衆人の間をあちこち徘徊《はいかい》しているうち、どういう機会《はずみ》か自分の手巾《ハンケチ》を足の下《もと》へ落した。混雑の際と見えて、彼は固《もと》より、傍《はた》のものもいっこうそれに気がつかずにいた。するとまだ年の若い美くしい女が一人その手巾を床《ゆか》の上から取り上げて、ダヌンチオの前へ持って来た。彼女はそれをダヌンチオに渡すつもりで、これはあなたのでしょうと聞いた。ダヌンチオはありがとうと答えたが、女の美くしい器量に対してちょっと愛嬌《あいきょう》が必要になったと見えて、「あなたのにして持っていらっしゃい、進上しますから」とあたかも少女の喜びを予想したような事を云った。女は一口の答もせず黙ってその手巾を指先でつまんだまま暖炉《ストーヴ》の傍《そば》まで行っていきなりそれを火の中へ投げ込んだ。ダヌンチオは別にしてその他の席に居合せたものはことごとく微笑を洩《も》らした。
 僕はこの話を聞いた時、年の若い茶褐色の髪毛を有《も》った以太利生れの美人を思い浮べるよりも、その代りとしてすぐ千代子の眼と眉《まゆ》を想像した。そうしてそれがもし千代子でなくって妹の百代子であったなら、たとい腹の中はどうあろうとも、その場は礼を云って快よく手巾を貰い受けたに違いあるまいと思った。ただ千代子にはそれができないのである。
 口の悪い松本の叔父はこの姉妹《きょうだい》に渾名《あだな》をつけて常に大蝦蟆《おおがま》と小蝦蟆《ちいがま》と呼んでいる。二人の口が唇《くちびる》の薄い割に長過ぎるところが銀貨入れの蟇口《がまぐち》だと云っては常に二人を笑わせたり怒らせたりする。これは性質に関係のない顔形の話であるが、同じ叔父が口癖のようにこの姉妹を評して、小蟇《ちいがま》はおとなしくって好いが、大蟇《おおがま》は少し猛烈過ぎると云うのを聞くたびに、僕はあの叔父がどう千代子を観察しているのだろうと考えて、必ず彼の眼識に疑《うたがい》を挟《さしは》さみたくなる。千代子の言語なり挙動なりが時に猛烈に見えるのは、彼女が女らしくない粗野なところを内に蔵《かく》しているからではなくって、余り女らしい優しい感情に前後を忘れて自分を投げかけるからだと僕は固く信じて疑がわないのである。彼女の有《も》っている善悪是非の分別はほとんど学問や経験と独立している。ただ直覚的に相手を目当に燃え出すだけである。それだから相手は時によると稲妻
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