うしてそれが大抵は失敗の気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]であった。しかも敬太郎を前に置いて、
「あなたなんざあ、失礼ながら、まだ学校を出たばかりで本当の世の中は御存じないんだからね。いくら学士でございの、博士で候《そうろう》のって、肩書ばかり振り廻したって、僕は慴《おび》えないつもりだ。こっちゃちゃんと実地を踏んで来ているんだもの」と、さっきまで教育に対して多大の尊敬を払っていた事はまるで忘れたような風で、無遠慮なきめつけ方をした。そうかと思うと噫《げっぷ》のような溜息《ためいき》を洩《も》らして自分の無学をさも情《なさけ》なさそうに恨《うら》んだ。
「まあ手っ取り早く云やあ、この世の中を猿|同然《どうぜん》渡って来たんでさあ。こう申しちゃおかしいが、あなたより十層倍の経験はたしかに積んでるつもりです。それでいて、いまだにこの通り解脱《げだつ》ができないのは、全く無学すなわち学がないからです。もっとも教育があっちゃ、こうむやみやたらと変化する訳にも行かないようなもんかも知れませんよ」
敬太郎はさっきから気の毒なる先覚者とでも云ったように相手を考えて、その云う事に相応の注意を払って聞いていたが、なまじい酒を飲ましたためか、今日はいつもより気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]だの愚痴《ぐち》だのが多くって、例のように純粋の興味が湧《わ》かないのを残念に思った。好い加減に酒を切り上げて見たが、やっぱり物足らなかった。それで新らしく入れた茶を勧《すす》めながら、
「あなたの経歴談はいつ聞いても面白い。そればかりでなく、僕のような世間見ずは、御話を伺うたんびに利益を得ると思って感謝しているんだが、あなたが今までやって来た生活のうちで、最も愉快だったのは何ですか」と聞いて見た。森本は熱い茶を吹き吹き、少し充血した眼を二三度ぱちつかせて黙っていた。やがて深い湯呑《ゆのみ》を干してしまうとこう云った。
「そうですね。やった後《あと》で考えると、みんな面白いし、またみんなつまらないし、自分じゃちょっと見分がつかないんだが。――全体愉快ってえのは、その、女気《おんなっけ》のある方を指すんですか」
「そう云う訳でもないんですが、あったって差支《さしつかえ》ありません」
「なんて、実はそっちの方が聞きたいんでしょう。――しかし雑談《じょうだん》抜きでね、田川さん。面白い面白くないはさておいて、あれほど呑気《のんき》な生活は世界にまたとなかろうという奴をやった覚《おぼえ》があるんですよ。そいつを一つ話しましょうか、御茶受の代りに」
敬太郎は一も二もなく所望した。森本は「じゃあちょっと小便をして来る」と云って立ちかけたが、「その代り断わっておくが女気はありませんよ。女気どころか、第一人間の気《け》がないんだもの」と念を押して廊下の外へ出て行った。敬太郎は一種の好奇心を抱《いだ》いて、彼の帰るのを待ち受けた。
八
ところが五分待っても十分待っても冒険家は容易に顔を現わさなかった。敬太郎《けいたろう》はとうとうじっと我慢しきれなくなって、自分で下へ降りて用場を探して見ると、森本の影も形も見えない。念のためまた階段《はしごだん》を上《あが》って、彼の部屋の前まで来ると、障子《しょうじ》を五六寸明け放したまま、真中に手枕をしてごろりと向うむきに転《ころ》がっているものがすなわち彼であった。「森本さん、森本さん」と二三度呼んで見たが、なかなか動きそうにないので、さすがの敬太郎もむっとして、いきなり室《へや》に這入《はい》り込むや否や、森本の首筋を攫《つか》んで強く揺振《ゆすぶ》った。森本は不意に蜂《はち》にでも螫《さ》されたように、あっと云って半《なか》ば跳《は》ね起きた。けれども振り返って敬太郎の顔を見ると同時に、またすぐ夢現《ゆめうつつ》のたるい眼つきに戻って、
「やああなたですか。あんまりちょうだいしたせいか、少し気分が変になったもんだから、ここへ来てちょっと休んだらつい眠くなって」と弁解する様子に、これといって他《ひと》を愚弄《ぐろう》する体《てい》もないので、敬太郎もつい怒《おこ》れなくなった。しかし彼の待ち設けた冒険談はこれで一頓挫《いちとんざ》を来《きた》したも同然なので、一人自分の室《へや》に引取ろうとすると、森本は「どうもすみません、御苦労様でした」と云いながら、また後《あと》から敬太郎について来た。そうして先刻《さっき》まで自分の坐《すわ》っていた座蒲団《ざぶとん》の上に、きちんと膝《ひざ》を折って、
「じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな」と云った。
森本の呑気生活というのは、今から十五六年|前《ぜん》彼が技手に雇われて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であ
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