うちで、この松本という男は世に著《あら》われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟《りくつ》をちらちらと閃《ひら》めかされた。そればかりでなく、松本は田口を捕《つら》まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵《のの》しった。
「第一《だいち》ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考《かんがえ》のできる閑《ひま》がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年《ねん》が年中《ねんじゅう》摺鉢《すりばち》の中で、擂木《すりこぎ》に攪《か》き廻されてる味噌《みそ》見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体《あくたい》を吐《つ》くのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫《ごう》も毒々しいところだの、小悪《こにく》らしい点だのの見えない事であった。彼の罵《のの》しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを具《そな》えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟《しげき》を受けるだけであった。
「それでいて、碁《ご》を打つ、謡《うたい》を謡《うた》う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞《へたくそ》なんですが」
「それが余裕《よゆう》のある証拠《しょうこ》じゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日《きのう》雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民《こうとうゆうみん》でないからです。いくら他《ひと》の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」
十
「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
松本は大きな火鉢《ひばち》の縁《ふち》へ両肱《りょうひじ》を掛けて、その一方の先にある拳骨《げんこつ》を顎《あご》の支えにしながら敬太郎《けいたろう》を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色《ほんしょく》があるらしくも思った。彼は煙草《たばこ》道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首《がんくび》のついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙《のろし》のごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔の傍《そば》でいつの間にか消えて行く具合が、どこにも締《しま》りを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋《うわたび》を白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣《ころも》を聯想《れんそう》させるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采《ふうさい》なり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
敬太郎は自《みず》から高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
「妻《さい》は無論います。なぜですか」
敬太郎は取り返しのつかない愚《ぐ》な問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を
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