て行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、柔《やわら》かい座蒲団《ざぶとん》の上を滑《すべ》り下りた。田口は「どうも御苦労でした」と叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》しただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰好《かっこう》のいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷宮《メーズ》の奥に引き込まれるような面白味を感じた。今日《きょう》田口での獲物《えもの》は松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯綜《さくそう》した事実を自分のために締《し》め括《くく》っている妙な嚢《ふくろ》のように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄|悪《にく》い人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆美《たんび》の声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前に坐《すわ》っている間、彼は始終《しじゅう》何物にか縛《しば》られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視の下《もと》に置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでに懐《なつ》かし味の籠《こも》ったような松本を想像してやまなかった。
八
翌朝《よくあさ》さっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面に濡《ぬ》れていた。屋根瓦《やねがわら》に徹《とお》るような佗《わ》びしい色をしばらく眺《なが》めていた敬太郎《けいたろう》は、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起るので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の喇叭《らっぱ》が、陰気な空気を割《さ》いて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
松本の家《うち》は矢来《やらい》なので、敬太郎はこの間の晩|狐《きつね》につままれたと同じ思いをした交番下の景色《けしき》を想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共|二股《ふたまた》に割れて、勾配《こうばい》のついた真中だけがいびつに膨《ふく》れているのを発見した。彼は寒い雨の袴《はかま》の裾《すそ》に吹きかけるのも厭《いと》わずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒《かじぼう》を握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるで趣《おもむき》が違っていた。敬太郎は後《うしろ》の方に高く黒ずんでいる目白台《めじろだい》の森と、右手の奥に朦朧《もうろう》と重なり合った水稲荷《みずいなり》の木立《こだち》を見て坂を上《あが》った。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちは小《ち》さい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた枳殻《からたち》の垣を覗《のぞ》いたり、古い椿《つばき》の生《お》い被《かぶ》さっている墓地らしい構《かまえ》の前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。
松本の家はこの車屋の筋向うを這入《はい》った突き当りの、竹垣に囲われた綺麗《きれい》な住居《すまい》であった。門を潜《くぐ》ると子供が太鼓を鳴らしている音が聞こえた。玄関へかかって案内を頼んでもその太鼓の音は毫《ごう》もやまなかった。その代り四辺《あたり》は森閑《しんかん》として人の住んでいる臭《におい》さえしなかった。雨に鎖《とざ》された家《いえ》の奥から現われた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取ったなり無言のまま引っ込んだが、しばらくしてからまた出て来て、「はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが、雨の降らない日においでを願えますまいか」と云った。今まで就職運動のため諸方へ行って断わられつけている敬太郎にも、この断り方だけは不
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