責任のあるなしにかかわらず、纏《まと》まった形となって頭の中には現われ悪《にく》かった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
田口はただ微笑した。そこへ例の袴《はかま》を穿《は》いた書生が、一枚の名刺を盆に載《の》せて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。先刻《さっき》からよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好い機《しお》に、もうここで切り上げようと思って身繕《みづくろ》いにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれを遮《さえ》ぎった。そうして敬太郎の辟易《へきえき》するのに頓着《とんじゃく》なくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明瞭《めいりょう》に答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだ辛《つら》い思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
田口の最後と断《ことわ》ったこの問に対しても、敬太郎は固《もと》より満足な返事を有《も》っていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御何《おなに》とかいう言葉がきっとどこかへ交《まじ》って来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
田口はこの答を聞いて、手焙《てあぶり》の胴に当てた手を動かしながら、拍子《ひょうし》を取るように、指先で桐《きり》の縁《ふち》を敲《たた》き始めた。それをしばらくくり返した後《あと》で、「どうしたんだか余《あん》まり要領を得ませんね」と云ったが、直《すぐ》言葉を継《つ》いで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂闊《うかつ》に恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得られる訳のものでないと固く信じていたから、この評価に対してそれほどの苦痛も感じなかった。その代り正直と賞《ほ》められた事も大した嬉《うれ》しさにはならなかった。このくらいの正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。
六
敬太郎《けいたろう》は先刻《さっき》から頭の上らない田口の前で、たった一言《ひとこと》で好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふと萌《きざ》した。
「要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような迂闊《うかつ》なものに見極《みきわ》められる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後《あと》なんか跟《つ》けるより、直《じか》に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数《てかず》が省《はぶ》けて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです」
これだけ云った敬太郎は、定めて世故《せこ》に長《た》けた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ真面目《まじめ》な態度で「あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ」と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
「あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです」と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
「それほどの考《かんがえ》がちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を御頼《おたのみ》申したのは私《わたし》が悪かった。人物を見損《みそく》なったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味を有《も》っておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。止《よ》しゃあよかった……」
「いえ須永《すなが》君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります」と敬太郎は苦しい思《おもい》をして答えた。
「そうでしたか」
田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切り棄《す》てたなり、それ以上に追窮する愚《ぐ》をあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた
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