やり返そうとするのをわざと外《はず》して廊下へ出た。そうして便所から帰って夜具の中に潜《もぐ》り込む時、まあ当分休養する事にするんだと口の内で呟《つぶや》いた。
 敬太郎は夜中に二|返《へん》眼を覚《さ》ました。一度は咽喉《のど》が渇いたため、一度は夢を見たためであった。三度目に眼が開《あ》いた時は、もう明るくなっていた。世の中が動き出しているなと気がつくや否《いな》や敬太郎は、休養休養と云ってまた眼を眠《ねむ》ってしまった。その次には気の利《き》かないボンボン時計の大きな音が無遠慮に耳に響いた。それから後《あと》はいくら苦心しても寝つかれなかった。やむを得ず横になったまま巻煙草《まきたばこ》を一本吸っていると、半分ほどに燃えて来た敷島《しきしま》の先が崩れて、白い枕が灰だらけになった。それでも彼はじっとしているつもりであったが、しまいに東窓から射し込む強い日脚《ひあし》に打たれた気味で、少し頭痛がし出したので、ようやく我《が》を折って起き上ったなり、楊枝《ようじ》を銜《くわ》えたまま、手拭《てぬぐい》をぶら下げて湯に行った。
 湯屋の時計はもう十時少し廻っていたが、流しの方はからりと片づいて、小桶《こおけ》一つ出ていない。ただ浴槽《ゆぶね》の中に一人横向になって、硝子越《ガラスごし》に射し込んでくる日光を眺《なが》めながら、呑気《のんき》そうにじゃぶじゃぶやってるものがある。それが敬太郎と同じ下宿にいる森本《もりもと》という男だったので、敬太郎はやあ御早うと声を掛けた。すると、向うでも、やあ御早うと挨拶《あいさつ》をしたが、
「何です今頃|楊枝《ようじ》なぞを銜《くわ》え込んで、冗談《じょうだん》じゃない。そう云やあ昨夕《ゆうべ》あなたの部屋に電気が点《つ》いていないようでしたね」と云った。
「電気は宵《よい》の口から煌々《こうこう》と点いていたさ。僕はあなたと違って品行方正だから、夜遊びなんか滅多《めった》にした事はありませんよ」
「全くだ。あなたは堅いからね。羨《うらや》ましいくらい堅いんだから」
 敬太郎は少し羞痒《くすぐっ》たいような気がした。相手を見ると依然として横隔膜《おうかくまく》から下を湯に浸《つ》けたまま、まだ飽《あ》きずにじゃぶじゃぶやっている。そうして比較的|真面目《まじめ》な顔をしている。敬太郎はこの気楽そうな男の口髭《くちひげ》がだらしな
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