ないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
「糊口《くち》も糊口[#「糊口」は底本では「口糊」]だが、糊口より先に、何か驚嘆に価《あたい》する事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。攫徒《すり》にさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛《そくばく》だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地《いち》はどうでもいいから思う存分勝手な真似《まね》をして構わないかというと、やっぱり構うからね。厭《いや》に人を束縛するよ教育が」と忌々《いまいま》しそうに嘆息する事がある。須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。第一彼の態度からしてが本当に真面目《まじめ》なのだか、またはただ空焦燥《からはしゃぎ》に焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言い募《つの》るので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」
「ところがそうは行かない」
敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へ潜《もぐ》る社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議を攫《つか》んだ職業はたんとあるまい。それに彼らの立場は、ただ他《ひと》の暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の暴露《ばくろ》にあるのだから、あらかじめ人を陥《おとしい》れようとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者|否《いな》人間の異常なる機関《からくり》が暗い闇夜《やみよ》に運転する有様を、驚嘆の念をもって眺《なが》めていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。須永は逆《さから》わずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのを悪《にく》く思って別れた。けれ
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