について、あなたを煩《わず》らわす日は来ないでしょう。なるほどあなたのおっしゃる通り僕は僻んだ解釈ばかりしていたのです。僕はあなたの御話を聞くまでは非常に怖《こわ》かったです。胸の肉が縮《ちぢ》まるほど怖かったです。けれども御話を聞いてすべてが明白になったら、かえって安心して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。その代り何だか急に心細くなりました。淋《さび》しいです。世の中にたった一人立っているような気がします」
「だって御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。おれだって今までのおれだよ。誰も御前に対して変るものはありゃしないんだよ。神経を起しちゃいけない」
「神経は起さなくっても淋しいんだから仕方がありません。僕はこれから宅《うち》へ帰って母の顔を見るときっと泣くにきまっています。今からその時の涙を予想しても淋《さむ》しくってたまりません」
「御母さんには黙っている方がよかろう」
「無論話しゃしません。話したら母がどんな苦しい顔をするか分りません」
 二人は黙然《もくねん》として相対した。僕は手持無沙汰《てもちぶさた》に煙草盆《たばこぼん》の灰吹《はいふき》を叩いた。市蔵はうつむいて袴《はかま》の膝《ひざ》を見つめていた。やがて彼は淋《さみ》しい顔を上げた。
「もう一つ伺っておきたい事がありますが、聞いて下さいますか」
「おれの知っている事なら何でも話して上げる」
「僕を生んだ母は今どこにいるんです」
 彼の実の母は、彼を生むと間もなく死んでしまったのである。それは産後の肥立《ひだち》が悪かったせいだとも云い、または別の病《やまい》だとも聞いているが、これも詳しい話をしてやるほどの材料に欠乏した僕の記憶では、とうてい餓《う》えた彼の眼を静めるに足りなかった。彼の生母《せいぼ》の最後の運命に関する僕の話は、わずか二三分で尽きてしまった。彼は遺憾《いかん》な顔をして彼女の名前を聞いた。幸《さいわい》にして僕は御弓《おゆみ》という古風な名を忘れずにいた。彼は次に死んだ時の彼女の年齢《とし》を問うた。僕はその点に関して、何という確《しか》とした知識を有《も》っていなかった。彼は最後に、彼の宅《うち》に奉公していた時分の彼女に会った事があるかと尋ねた。僕はあると答えた。彼はどんな女だと聞き返した。気の毒にも僕の記憶はすこぶる朦朧《もうろう》としていた。事実僕は
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