している。彼は自己の幸福のために、どうかして翩々《へんぺん》たる軽薄才子になりたいと心《しん》から神に念じているのである。軽薄に浮かれ得るよりほかに彼を救う途《みち》は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、すでに承知していた。けれども実行はいまだにできないでもがいている。
二
僕はこういう市蔵を仕立て上げた責任者として親類のものから暗《あん》に恨《うら》まれているが、僕自身もその点については疚《や》ましいところが大いにあるのだから仕方がない。僕はつまり性格に応じて人を導く術《すべ》を心得なかったのである。ただ自分の好尚《こうしょう》を移せるだけ市蔵の上に移せばそれで充分だという無分別から、勝手しだいに若いものの柔らかい精神を動かして来たのが、すべての禍《わざわい》の本《もと》になったらしい。僕がこの過失に気がついたのは今から二三年前である。しかし気がついた時はもう遅かった。僕はただなす能力のない手を拱《こま》ぬいて、心の中《うち》で嘆息しただけであった。
事実を一言《いちごん》でいうと、僕の今やっているような生活は、僕に最も適当なので、市蔵にはけっして向かないのである。僕は本来から気の移りやすくでき上った、極《きわ》めて安価な批評をすれば、生れついての浮気《うわき》ものに過ぎない。僕の心は絶えず外に向って流れている。だから外部の刺戟《しげき》しだいでどうにでもなる。と云っただけではよく腑《ふ》に落ちないかも知れないが、市蔵は在来の社会を教育するために生れた男で、僕は通俗な世間から教育されに出た人間なのである。僕がこのくらい好い年をしながら、まだ大変若いところがあるのに引き更《か》えて、市蔵は高等学校時代からすでに老成していた。彼は社会を考える種に使うけれども、僕は社会の考えにこっちから乗り移って行くだけである。そこに彼の長所があり、かねて彼の不幸が潜《ひそ》んでいる。そこに僕の短所があり、また僕の幸福が宿っている。僕は茶の湯をやれば静かな心持になり、骨董《こっとう》を捻《ひね》くれば寂《さ》びた心持になる。そのほか寄席《よせ》、芝居、相撲《すもう》、すべてその時々の心持になれる。その結果あまり眼前の事物に心を奪われ過ぎるので、自然に己《おのれ》なき空疎な感に打たれざるを得ない。だからこんな超然生活を営んで強いて自我を押し立てようと
前へ
次へ
全231ページ中208ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング