代子に今日これからまた鎌倉へ帰るのかと尋ねた。
「泊って行くわ」
「どこへ」
「そうね。内幸町へ行っても好いけど、あんまり広過ぎて淋《さむ》しいから。――久しぶりにここへ泊ろうかしら、ねえ叔母さん」
僕には千代子が始めから僕の家に寝るつもりで出て来たように見えた。自白すれば僕はそこへ坐って十分と経たないうちに、また眼の前にいる彼女の言語動作を一種の立場から観察したり、評価したり、解釈したりしなければならないようになったのである。僕はそこに気がついた時、非常な不愉快を感じた。またそういう努力には自分の神経が疲れ切っている事も感じた。僕は自分が自分に逆《さか》らって余儀なくこう心を働かすのか。あるいは千代子が厭《いや》がる僕を無理に強いて動くようにするのか。どっちにしても僕は腹立たしかった。
「千代ちゃんが来ないでも吾一さんでたくさんだのに」
「だってあたし責任があるじゃありませんか。叔母さんを招待したのはあたしでしょう」
三十
「じゃ僕も招待を受けたんだから、送って来て貰《もら》えば好かった」
「だから他《ひと》の云う事を聞いて、もっといらっしゃれば好《い》いのに」
「いいえあの時にさ。僕の帰った時にさ」
「そうするとまるで看護婦みたようね。好いわ看護婦でも、ついて来て上げるわ。なぜそう云わなかったの」
「云っても断られそうだったから」
「あたしこそ断られそうだったわ、ねえ叔母さん。たまに招待に応じて来ておきながら、厭《いや》にむずかしい顔ばかりしているんですもの。本当にあなたは少し病気よ」
「だから千代子について来て貰いたかったのだろう」と母が笑いながら云った。
僕は母の帰るつい一時間前まで千代子の来る事を予想し得なかった。それは今改めてくり返す必要もないが、それと共に僕は母が高木について齎《もた》らす報道をほとんど確実な未来として予期していた。穏《おだ》やかな母の顔が不安と失望で曇る時の気の毒さも予想していた。僕は今この予期と全く反対の結果を眼の前に見た。彼らは二人とも常に変らない親しげな叔母|姪《めい》であった。彼らの各自《おのおの》は各自に特有な温《あたた》か味《み》と清々《すがすが》しさを、いつもの通り互いの上に、また僕の上に、心持よく加えた。
その晩は散歩に出る時間を倹約して、女二人と共に二階に上《あが》って涼みながら話をした。僕
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