せさした。申し合せたように、舟中《ふねじゅう》立ち上って籃《かご》の内を覗くと、七八寸もあろうと云う魚が、縦横に狭い水の中を馳《か》け廻っていた。その或ものは水の色を離れない蒼《あお》い光を鱗《うろこ》に帯びて、自分の勢で前後左右に作る波を肉の裏に透《とお》すように輝やいた。
「一つ掬《すく》って御覧なさい」
 高木は大きな掬網《たま》の柄《え》を千代子に握らした。千代子は面白半分それを受取って水の中で動かそうとしたが、動きそうにもしないので、高木は己《おの》れの手を添えて二人いっしょに籃《かご》の中を覚束《おぼつか》なく攪《か》き廻した。しかし魚は掬《すく》えるどころではなかったので、千代子はすぐそれを船頭に返した。船頭は同じ掬網《たま》で叔父の命ずるままに何疋でも水から上へ択《よ》り出した。僕らは危怪《きかい》な蛸の単調を破るべく、鶏魚《いさき》、鱸《すずき》、黒鯛《くろだい》の変化を喜こんでまた岸に上《のぼ》った。

        二十五

 僕はその晩一人東京へ帰った。母はみんなに引きとめられて、帰るときには吾一か誰か送って行くという条件の下《もと》に、なお二三日鎌倉に留《とど》まる事を肯《がえ》んじた。僕はなぜ母が彼らの勧めるままに、人を好《よ》く落ちついているのだろうと、鋭どく磨《と》がれた自分の神経から推して、悠長《ゆうちょう》過ぎる彼女をはがゆく思った。
 高木にはそれから以後ついぞ顔を合せた事がなかった。千代子と僕に高木を加えて三《み》つ巴《ともえ》を描いた一種の関係が、それぎり発展しないで、そのうちの劣敗者に当る僕が、あたかも運命の先途《せんど》を予知したごとき態度で、中途から渦巻《うずまき》の外に逃《のが》れたのは、この話を聞くものにとって、定めし不本意であろう。僕自身も幾分か火の手のまだ収まらないうちに、取り急いで纏《まとい》を撤したような心持がする。と云うと、僕に始からある目論見《もくろみ》があって、わざわざ鎌倉へ出かけたとも取れるが、嫉妬心《しっとしん》だけあって競争心を有《も》たない僕にも相応の己惚《うぬぼれ》は陰気な暗い胸のどこかで時々ちらちら陽炎《かげろ》ったのである。僕は自分の矛盾をよく研究した。そうして千代子に対する己惚《うぬぼれ》をあくまで積極的に利用し切らせないために、他の思想やら感情やらが、入れ代り立ち替り雑然として吾心
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