何を苦しんでわざわざ鎌倉|下《くだ》りまで出かけて来て、狭い蚊帳へ押し合うように寝るんだか、叔父にも吾一にも僕にも説明のしようがなかった。
「これも一興《いっきょう》だ」
疑問は叔父の一句でたちまち納《おさま》りがついたが、暑さの方はなかなか去らないので誰もすぐは寝つかれなかった。吾一は若いだけに、明日《あした》の魚捕《さかなとり》の事を叔父に向ってしきりに質問した。叔父はまた真面目《まじめ》だか冗談《じょうだん》だか、船に乗りさえすれば、魚の方で風《ふう》を望《のぞ》んで降《くだ》るような旨《うま》い話をして聞かせた。それがただ自分の伜《せがれ》を相手にするばかりでなく、時々はねえ市さんと、そんな事にまるで冷淡の僕まで聴手《ききて》にするのだから少し変であった。しかし僕の方はそれに対して相当な挨拶《あいさつ》をする必要があるので、話の済む前には、僕は当然同行者の一人《いちにん》として受答《うけこたえ》をするようになっていた。僕は固《もと》より行くつもりでも何でもなかったのだから、この変化は僕に取って少し意外の感があった。気楽そうに見える叔父はそのうち大きな鼾声《いびき》をかき始めた。吾一もすやすや寝入《ねい》った。ただ僕だけは開《あ》いている眼をわざと閉じて、更《ふ》けるまでいろいろな事を考えた。
二十
翌日《あくるひ》眼が覚《さ》めると、隣に寝ていた吾一の姿がいつの間にかもう見えなくなっていた。僕は寝足らない頭を枕の上に着けて、夢とも思索とも名のつかない路《みち》を辿《たど》りながら、時々別種の人間を偸《ぬす》み見るような好奇心をもって、叔父の寝顔を眺《なが》めた。そうして僕も寝ている時は、傍《はた》から見ると、やはりこう苦《く》がない顔をしているのだろうかと考えなどした。そこへ吾一が這入《はい》って来て、市《いっ》さんどうだろう天気はと相談した。ちょっと起きて見ろと促《うな》がすので、起き上って縁側《えんがわ》へ出ると、海の方には一面に柔かい靄《もや》の幕がかかって、近い岬《みさき》の木立さえ常の色には見えなかった。降ってるのかねと僕は聞いた。吾一はすぐ庭先へ飛び下りて、空を眺《なが》め出したが、少し降ってると答えた。
彼は今日の船遊びの中止を深く気遣《きづか》うもののごとく、二人の姉まで縁側へ引張出して、しきりにどうだろうどうだろう
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