大学へかけては、席次にさほど重きをおかないのが、一般の習慣であった上、年ごとに自分を高く見積る見識というものが加わって来るので、点数の多少は大した苦にならなかった。これらをほかにして、僕はまだ痛切な恋に落ちた経験がない。一人の女を二人で争った覚《おぼえ》はなおさらない。自白すると僕は若い女ことに美くしい若い女に対しては、普通以上に精密な注意を払い得る男なのである。往来を歩いて綺麗《きれい》な顔と綺麗な着物を見ると、雲間から明らかな日が射した時のように晴やかな心持になる。会《たま》にはその所有者になって見たいと云う考《かんがえ》も起る。しかしその顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して、酔《よい》が去って急にぞっとする人のあさましさを覚える。僕をして執念《しゅうね》く美くしい人に附纏《つけまつ》わらせないものは、まさにこの酒に棄《す》てられた淋しみの障害に過ぎない。僕はこの気分に乗り移られるたびに、若い時分が突然|老人《としより》か坊主に変ったのではあるまいかと思って、非常な不愉快に陥《おちい》る。が、あるいはそれがために恋の嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]というものを知らずにすます事が出来たかも知れない。
 僕は普通の人間でありたいという希望を有《も》っているから、嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]心のないのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話したような訳で、眼《ま》の当りにこの高木という男を見るまでは、そういう名のつく感情に強く心を奪われた試《ためし》がなかったのである。僕はその時高木から受けた名状しがたい不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が源因で、この嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]心が燃え出したのだと思った時、僕はどうしても僕の嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]心を抑《おさ》えつけなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした。僕は存在の権利を失った嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]心を抱《いだ》いて、誰にも見えない腹の中で苦悶《くもん》し始めた。幸い千代子と百代子が日が薄くなったから海へ行くと云い出したので、高木が必ず彼らに跟《つ》いて行くに違ないと思った僕は、早く跡に一人残りたいと願った。彼らははたして高木を誘った。ところが意外にも彼は
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