こしぐろう》をするからである。千代子が風のごとく自由に振舞うのは、先の見えないほど強い感情が一度に胸に湧《わ》き出るからである。彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人《いちにん》である。だから恐れる僕を軽蔑《けいべつ》するのである。僕はまた感情という自分の重みでけつまずきそうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐《あわ》れむのである。否《いな》時によると彼女のために戦慄《せんりつ》するのである。
十三
須永《すなが》の話の末段は少し敬太郎《けいたろう》の理解力を苦しめた。事実を云えば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者とも云い得る男なのかも知れなかった。しかしそれは傍《はた》から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身はけっしてどっちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価《あたい》しないくらいに見限《みかぎ》っていた。その上彼は理窟《りくつ》が大嫌《だいきら》いであった。右か左へ自分の身体《からだ》を動かし得ないただの理窟は、いくら旨《うま》くできても彼には用のない贋造紙幣《がんぞうしへい》と同じ物であった。したがって恐れる男とか恐れない女とかいう辻占《つじうら》に似た文句を、黙って聞いているはずはなかったのだが、しっとりと潤《うるお》った身の上話の続きとして、感想がそこへ流れ込んで来たものだから、敬太郎もよく解らないながら素直に耳を傾むけなければすまなかったのである。
須永もそこに気がついた。
「話が理窟張《りくつば》ってむずかしくなって来たね。あんまり一人で調子に乗って饒舌《しゃべ》っているものだから」
「いや構わん。大変面白い」
「洋杖《ステッキ》の効果《ききめ》がありゃしないか」
「どうも不思議にあるようだ。ついでにもう少し先まで話す事にしようじゃないか」
「もう無いよ」
須永はそう云い切って、静かな水の上に眼を移した。敬太郎もしばらく黙っていた。不思議にも今聞かされた須永の詩だか哲学だか分らないものが、形の判然《はっきり》しない雲の峰のように、頭の中に聳《そび》えて容易に消えそうにしなかった。何事も語らないで彼の前に坐《すわ》っている須永自身も、平生の紋切形《もんきりがた》を離れた怪しい一種の人物として彼の眼に映じた。どうしても
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