ある。僕はいかなる意味においても家名を揚げ得る男ではない。ただ汚《けが》さないだけの見識を頭に入れておくばかりである。そうしてその見識は母に見せて喜こんで貰《もら》えるどころか、彼女とはまるでかけ離れた縁のないものなのだから、母も心細いだろう。僕も淋しい。
僕が母にかける心配の数あるうちで、第一に挙げなければならないのは、今話した通りの僕の欠点である。しかしこの欠点を矯《た》めずに母と不足なく暮らして行かれるほど、母は僕を愛していてくれるのだから、ただすまないと思う心を失なわずに、このままで押せば押せない事もないが、このわがままよりももっと鋭どい失望を母に与えそうなので、僕が私《ひそ》かに胸を痛めているのは結婚問題である。結婚問題と云うより僕と千代子を取り巻く周囲の事情と云った方が適当かも知れない。それを説明するには話の順序としてまず千代子の生れない当時に溯《さかの》ぼる必要がある。その頃の田口はけっして今ほどの幅利《はばきき》でも資産家でもなかった。ただ将来見込のある男だからと云うので、父が母の妹《いもと》に当るあの叔母を嫁にやるように周旋したのである。田口は固《もと》より僕の父を先輩として仰いでいた。なにかにつけて相談もしたり、世話にもなった。両家の間に新らしく成立したこの親しい関係が、月と共に加速度をもって円満に進行しつつある際に千代子が生れた。その時僕の母はどう思ったものか、大きくなったらこの子を市蔵の嫁にくれまいかと田口夫婦に頼んだのだそうである。母の語るところによると、彼らはその折《おり》快よく母の頼みを承諾したのだと云う。固より後から百代が生まれる、吾一《ごいち》という男の子もできる、千代子もやろうとすればどこへでもやられるのだが、きっと僕にやらなければならないほど確かに母に受合ったかどうか、そこは僕も知らない。
六
とにかく僕と千代子の間には両方共物心のつかない当時からすでにこういう絆《きずな》があった。けれどもその絆は僕ら二人を結びつける上においてすこぶる怪しい絆であった。二人は固《もと》より天に上《あが》る雲雀《ひばり》のごとく自由に生長した。絆を綯《な》った人でさえ確《しか》とその端《はし》を握っている気ではなかったのだろう。僕は怪しい絆という文字を奇縁という意味でここに使う事のできないのを深く母のために悲しむのである。
前へ
次へ
全231ページ中147ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング