の時分持っていたならと考える事も稀《まれ》ではない。一言《いちごん》でいうと、当時の僕は父にははなはだ冷淡だったのである。もっとも父もけっして甘い方ではなかった。今の僕の胸に映る彼の顔は、骨の高い血色の勝《すぐ》れない、親しみの薄い、厳格な表情に充《み》ちた肖像に過ぎない。僕は自分の顔を鏡の裏《うち》に見るたんびに、それが胸の中に収めた父の容貌《ようぼう》と大変似ているのを思い出しては不愉快になる。自分が父と同じ厭《いや》な印象を、傍《はた》の人に与えはしまいかと苦に病んで、そこで気が引けるばかりではない。こんな陰欝《いんうつ》な眉《まゆ》や額が代表するよりも、まだましな温たかい情愛を、血の中に流している今の自分から推して、あんなに冷酷に見えた父も、心の底には自分以上に熱い涙を貯《たくわ》えていたのではなかろうかと考えると、父の記念《かたみ》として、彼の悪い上皮《うわかわ》だけを覚えているのが、子としていかにも情ない心持がするからである。父は死ぬ二三日前僕を枕元に呼んで、「市蔵、おれが死ぬと御母さんの厄介《やっかい》にならなくっちゃならないぞ。知ってるか」と云った。僕は生れた時から母の厄介になっていたのだから、今更《いまさら》改ためて父からそれを聞かされるのを妙に思った。黙って坐っていると、父は骨ばかりになった顔の筋を無理に動かすようにして、「今のように腕白じゃ、御母さんも構ってくれないぞ。もう少しおとなしくしないと」と云った。僕は母が今まで構ってくれたんだからこのままの僕でたくさんだという気が充分あった。それで父の小言《こごと》をまるで必要のない余計な事のように考えて病室を出た。
 父が死んだ時母は非常に泣いた。葬式が出る間際《まぎわ》になって、僕は着物を着換えさせられたまま、手持無沙汰《てもちぶさた》だから、一人|縁側《えんがわ》へ出て、蒼《あお》い空を覗《のぞ》き込むように眺《なが》めていると、白無垢《しろむく》を着た母が何を思ったか不意にそこへ出て来た。田口や松本を始め、供《とも》に立つものはみんな向《むこう》の方で混雑《ごたごた》していたので、傍《はた》には誰も見えなかった。母は突然《いきなり》自分の坊主頭へ手を載《の》せて、泣き腫《は》らした眼を自分の上に据《す》えた。そうして小さい声で、「御父さんが御亡《おな》くなりになっても、御母さんが今まで通り可愛
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