いものを袂《たもと》から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を窘《たし》なめた。
「市さん、あなた本当に悪《にく》らしい方《かた》ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ零《こぼ》すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気《のんき》な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚《おぼえ》があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母の傍《そば》へ来て座に着いた。須永も続いて這入《はい》って来た。そうして二人の向側《むこうがわ》にある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席を割《さ》いてやった。
四人が茶を呑《の》んで待ち合わしている間《あいだ》に、骨上《こつあげ》の連中が二三組見えた。最初のは田舎染《いなかじ》みた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多く利《き》かなかった。次には尻を絡《から》げた親子連《おやこづれ》が来た。活溌《かっぱつ》な声で、壺《つぼ》を下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には散髪《さんぱつ》に角帯を締《し》めた男とも女とも片のつかない盲者《めくら》が、紫の袴《はかま》を穿《は》いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、袂《たもと》から出した巻煙草《まきたばこ》を吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞと促《うな》がしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。
八
真鍮《しんちゅう》の掛札に何々殿と書いた並等《なみとう》の竈《かま》
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