《き》くと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を髣髴《ほうふつ》するに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では明瞭《めいりょう》な松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この漠然《ばくぜん》たる松本がまた口を開いた。
「それでも田口が箆棒《べらぼう》をやってくれたため、君はかえって仕合《しあわせ》をしたようなものですね」
「なぜですか」
「きっと何か位置を拵《こし》らえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げても宜《い》い。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
 二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い更紗《さらさ》の座蒲団《ざぶとん》の上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の衝立《ついたて》の前に、瘠《や》せた高い身体《からだ》をしばらく佇《たた》ずまして、靴を穿《は》く敬太郎の後姿《うしろすがた》を眺《なが》めていたが、「妙な洋杖《ステッキ》を持っていますね。ちょっと拝見」と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、「へえ、蛇《へび》の頭だね。なかなか旨《うま》く刻《ほ》ってある。買ったんですか」と聞いた。「いえ素人《しろうと》が刻ったのを貰ったんです」と答えた敬太郎は、それを振りながらまた矢来《やらい》の坂を江戸川の方へ下《くだ》った。


     雨の降る日

        一

 雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、ついに当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。敬太郎《けいたろう》もそのうちに取り紛《まぎ》れて忘れてしまった。ふとそれを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入《しゅつにゅう》のできる身になってからの事である。その時分の彼の頭には、停留所の経験がすでに新らしい匂いを失いかけていた。彼は時々|須永《すなが》からその話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、なぜその前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。内幸町の叔父が人を担《かつ》ぐくらいの事は、母から聞いて知っているはずだのにと窘《たし》なめる事もあった。しまいには、君があんまり色
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