るから、今度こそは長い間休んだ埋合《うめあわ》せをするつもりであると公言する勇気が出ない。そこに一種の苦痛が潜《ひそ》んでいるのである。
この作を公《おおやけ》にするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫派《ローマンは》の作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く標榜《ひょうぼう》して路傍《ろぼう》の人の注意を惹《ひ》くほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
自分はまた自分の作物を新しい新しいと吹聴《ふいちょう》する事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
自分はすべて文壇に濫用《らんよう》される空疎な流行語を藉《か》りて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気《げんき》があって自分以上を装《よそお》うようなものができたりして、読者にすまない結果を齎《もたら》すのを恐れるだけである。
東京大阪を通じて計算すると、吾《わが》朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物《さくぶつ》を読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路《ろじ》も覗《のぞ》いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率《しんそつ》に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公《おおやけ》にし得る自分を幸福と信じている。
「彼岸過迄《ひがんすぎまで》」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空《むな》しい標題《みだし》である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を
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