》として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽出《ひきだし》に入れておいた。でまたその紙片《かみぎれ》を取り出して、自分のようで他人《ひと》のような、長いようで短かいような、出るようで這入《はい》るようなという句を飽《あ》かず眺《なが》めた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を有《も》ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周囲《まわり》の物から、自分のようで他人《ひと》のような、長いようで短かいような、出るようで這入《はい》るようなものを探《さが》しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの謎《なぞ》を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
 ところがまず眼の前の机、書物、手拭《てぬぐい》、座蒲団《ざぶとん》から順々に進行して行李《こうり》鞄《かばん》靴下《くつした》までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は焦燥《いらだ》つと共に乱れて来た。彼の観念は彼の室《へや》の中を駆《か》け廻《めぐ》って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着た黒の中折を被《かぶ》った背の高い瘠《やせ》ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を具《そな》えて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのない髯《ひげ》を生《は》やした森本の容貌《ようぼう》を想像の眼で眺《なが》めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。

        二十三

 森本の二字はとうから敬太郎《けいたろう》の耳に変な響を伝える媒介《なかだち》となっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の符徴《ふちょう》に変化してしまった。元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の洋杖《ステッキ》を聯想《れん
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