男がある。それは黒の中折《なかおれ》に霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着て、顔の面長《おもなが》い背の高い、瘠《や》せぎすの紳士で、眉《まゆ》と眉の間に大きな黒子《ほくろ》があるからその特徴を目標《めじるし》に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。敬太郎は始めて自分が危険なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公のような心持がし出した。同時に田口が自己の社会的利害を護《まも》るために、こんな暗がりの所作《しょさ》をあえてして、他日の用に、他《ひと》の弱点を握っておくのではなかろうかと云う疑《うたがい》を起した。そう思った時、彼は人の狗《いぬ》に使われる不名誉と不徳義を感じて、一種|苦悶《くもん》の膏汗《あぶらあせ》を腋《わき》の下に流した。彼は手紙を手にしたまま、じっと眸《ひとみ》を据《す》えたなり固くなった。しかし須永の母から聞いた田口の性格と、自分が直《じか》に彼に会った時の印象とを纏《まと》めて考えて見ると、けっしてそんな人の悪そうな男とも思われないので、たとい他人の内行《ないこう》に探《さぐ》りを入れるにしたところで、必ずしもそれほど下品な料簡《りょうけん》から出るとは限らないという推断もついて見ると、いったん硬直《こうちょく》になった筋肉の底に、また温《あた》たかい血が通《かよ》い始めて、徳義に逆らう吐気《むかつき》なしに、ただ興味という一点からこの問題を面白く眺《なが》める余裕《よゆう》もできてきた。それで世の中に接触する経験の第一着手として、ともかくも田口から依頼された通りにこの仕事をやり終《おお》せて見ようという気になった。彼はもう一度とくと田口の手紙を読み直した。そうしてそこに書いてある特徴と条件だけで、はたして満足な結果が実際に得られるだろうかどうかを確かめた。
二十二
田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下《もと》で、乗降《のりおり》に忙がしい多数の客の中《うち》から、指定された局部の一点を目標《めじるし》に、これだと思う男を過《あやま》ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退《ひ》ける刻限なの
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