だけで、ただはあはあと挨拶《あいさつ》した。そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、手持無沙汰《てもちぶさた》と知りながら黙らなければならなかった。主人は巻莨入《まきたばこいれ》から敷島《しきしま》を一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。
「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」
実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望を有《も》っています」
田口は笑い出した。そうして機嫌《きげん》の好い顔つきをして、学士の数《かず》のこんなに殖《ふ》えて来た今日《こんにち》、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇《ねん》ごろに説いて聞かせた。しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃《のが》れるだけでも結構です」
「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。直《すぐ》という訳にも行きますまいが」
「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家《おうち》の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事《わたくしごと》にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」
「そんな事でもして見る気がありますか」
「あります」
「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」
「ええなるべく早い方が結構です」
敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。
二十一
穏《おだ》やかな冬の日がまた二三日続いた。敬太郎《けいたろう》は三階の室《へや》から、窓に入る空と樹と屋根瓦《やねがわら》を眺《なが》めて、自然を橙色《だいだいいろ》に暖ためるおとな
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