関して突然余の手元に届いた一封の書翰は、実にこの隠者が二十余年来の無音《ぶいん》を破る価ありと信じて、とくに余のために認《したた》めてくれたものと見える。
下
手紙には日常の談話と異《こと》ならない程度の平易な英語で、真率《まじめ》に余の学位辞退を喜こぶ旨《むね》が書いてあった。その内に、今回の事は君がモラル・バックボーンを有している証拠になるから目出《めで》たいという句が見えた。モラル・バックボーンという何でもない英語を翻訳すると、徳義的脊髄という新奇でかつ趣《おもむき》のある字面《じづら》が出来る。余の行為がこの有用な新熟語に価するかどうかは、先生の見識に任せて置くつもりである。(余自身はそれほど新らしい脊髄がなくても、不便宜なしに誰にでも出来る所作《しょさ》だと思うけれども)
先生はまたグラッドストーンやカーライルやスペンサーの名を引用して、君の御仲間も大分あるといわれた。これには恐縮した。余が博士を辞する時に、これら前人《ぜんじん》の先例は、毫《ごう》も余が脳裏《のうり》に閃《ひら》めかなかったからである。――余が決断を促がす動機の一部分をも形づくらなかったからである。尤《もっと》も先生がこれら知名の人の名を挙げたのは、辞任の必ずしも非礼でないという実証を余に紹介されたまでで、これら知名の人を余に比較するためでなかったのは無論である。
先生いう、――われらが流俗以上に傑出しようと力《つと》めるのは、人として当然である。けれどもわれらは社会に対する栄誉の貢献によってのみ傑出すべきである。傑出を要求するの最上権利は、凡《すべ》ての時において、われらの人物|如何《いかん》とわれらの仕事如何によってのみ決せらるべきである。
先生のこの主義を実行している事は、先生の日常生活を別にしても、その著作『日本歴史』において明《あきら》かに窺《うかが》う事が出来る。自白すれば余はまだこの標準的《スタンダード》述作《ウォーク》を読んでいないのである。それにもかかわらず、先生が十年の歳月と、十年の精力と、同じく十年の忍耐を傾け尽して、悉《ことごと》くこれをこの一書の中に注ぎ込んだ過去の苦心談は、先生の愛弟子《まなでし》山県五十雄《やまがたいそお》君から精《くわ》しく聞いて知っている。先生は稿を起すに当って、殆んどあらゆる国語で出版された日本に関する凡《すべ》ての記事を読破《どくは》したという事である。山県君は第一その語学の力に驚ろいていた。和蘭語《オランダご》でも何でも自由に読むといって呆《あき》れたような顔をして余に語った。述作《じゅっさく》の際非常に頭を使う結果として、しまいには天を仰《あお》いで昏倒《こんとう》多時にわたる事があるので、奥さんが大変心配したという話も聞いた。そればかりではない、先生は単にこの著作を完成するために、日本語と漢字の研究まで積まれたのである。山県君は先生の技倆《ぎりょう》を疑って、六《む》ずかしい漢字を先生に書かして見たら、旨《うま》くはないが、劃《かく》だけは間違なく立派に書いたといって感心していた。これらの準備からなる先生の『日本歴史』は、悉《ことごと》く材料を第一の源《みなもと》から拾い集めて大成したもので、儲《もう》からない保証があると同時に、学者の良心に対して毫《ごう》も疚《や》ましからぬ徳義的な著作であるのはいうまでもない。
「余は人間に能《あと》う限りの公平と無私とを念じて、栄誉ある君の国の歴史を今になお述作しつつある。従って余の著書は一部|人士《じんし》の不満を招くかも知れない。けれどもそれはやむを得ない。ジョン・モーレーのいった通り何人《なんびと》にもあれ誠実を妨ぐるものは、人類進歩の活力を妨ぐると一般であって、その真正なる日本の進歩は余の心を深くかつ真面目《まじめ》に動かす題目に外ならぬからである。」
余は先生の人となりと先生の目的とを信じて、ここに先生の手紙の一節をありのままに訳出した。先生は新刊第三巻の冒頭《ぼうとう》にある緒論《しょろん》をとくに思慮《しりょ》ある日本人に見てもらいたいといわれる。先生から同書の寄贈を受ける日それを一読して満足な批評を書き得るならば、そうして先生の著書を天下に紹介する事が出来得るならば余の幸《さいわい》である。先生の意は、学位を辞退した人間としての夏目なにがしに自分の著述を読んでもらって、同じく博士を辞退した人間としての夏目なにがしに、その著述を天下に紹介してもらいたいという所にあるのだろうと思うからである。
[#地から2字上げ]――明治四四、三、六―八『東京朝日新聞』――
底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
1998(平成10)年7月24日第26刷発行
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