いながらも出来得る限りの耳と頭を整理して先生の前へ出た。時には先生の家《うち》までも出掛けた。先生の家は先生のフラネルの襯衣《シャツ》と先生の帽子――先生はくしゃくしゃになった中折帽《なかおれぼう》に自分勝手に変な鉢巻《はちまき》を巻き付けて被《かむ》っていた事があった。――凡《すべ》てこれら先生の服装に調和するほどに、先生の生活は単純なものであるらしかった。
中
その頃の余《よ》は西洋の礼式というものを殆んど心得《こころえ》なかったから、訪問時間などという観念を少しも挟《さしは》さむ気兼《きがね》なしに、時ならず先生を襲う不作法《ぶさほう》を敢てして憚《はば》からなかった。ある日朝早く行くと、先生は丁度|朝食《あさめし》を認《したた》めている最中であった。家が狭いためか、または余を別室に導く手数《てかず》を省いたためか、先生は余を自分の食卓の前に坐らして、君はもう飯を食ったかと聞かれた。先生はその時卵のフライを食っていた。なるほど西洋人というものはこんなものを朝食うのかと思って、余はひたすら食事の進行を眺めていた。実は今考えるとその時まで卵のフライというものを味わった事がないような気がする。卵のフライという言葉もそれからずっと後に覚えたように思われる。
先生はやがて肉刀《ナイフ》と肉匙《フォーク》を中途で置いた。そうして椅子を立ち上がって、書棚の中から黒い表紙の小形の本を出して、そのうちの或頁《あるページ》を朗々と読み始めた。しばらくすると、本を伏《ふ》せてどうだと聞かれた。正直の所余には一言《ひとこと》も解らなかったから、一体それは英語ですかと聞いた。すると先生は天来の滑稽を不用意に感得したように憚《はばか》りなく笑い出した。そうしてこれは希臘《ギリシャ》の詩だと答えられた。英国の表現《エキスプレッション》に、珍紛漢《ちんぷんかん》の事を、それは希臘語さというのがある。希臘語は彼地《かのち》でもそれ位|六《む》ずかしい物にしてあるのだろう。高等学校生徒の余などに解るはずは無論ない。それを何故《なぜ》先生が読んで聞かせたのかというと、詳しい理由は今思い出せないが、何でも希臘の文学を推称《すいしょう》した揚句《あげく》の事ではなかったかと思う。とにかく先生はそういう性質《たち》の人なのである。
先生の作った「日本におけるドン・ジュアンの孫」という長詩も慥《たし》か聞かされたように思う。けれどもそのうちの或行《あるぎょう》にアラス、アラック、という感投詞が二つ続いていたと記憶するだけで、あとはまるで忘れてしまった。
ベインの『論理学』を読めといって先生が貸してくれた事もあった。余はそれを通読するつもりで宅《うち》へ持って帰ったが、何分《なにぶん》課業その他が忙がしいので段々延び延びになって、何時《いつ》まで立っても目的を果し得なかった。ほど経て先生が、久しい前《ぜん》君に貸したベインの本は僕の先生の著作だから保存して置きたいから、もし読んでしまったなら返してくれといわれた。その本は大分|丹念《たんねん》に使用したものと見えて裏表《うらおもて》とも表紙が千切《ちぎ》れていた。それを借りたときにも返した時にも、先生は哲学の方の素養もあるのかと考えて、小供心《こどもごころ》に羨《うらや》ましかった。
あるときどんな英語の本を読んだら宜《よ》かろうという余の問に応じて、先生は早速《さっそく》手近にある紙片に、十種ほどの書目《しょもく》を認《したた》めて余に与えられた。余は時を移さずその内の或物を読んだ。即座に手に入らなかったものは、機会を求めて得る度《たび》にこれを読んだ。どうしても眼に触れなかったものは、倫敦《ロンドン》へ行ったとき買って読んだ。先生の書いてくれた紙片が、余の袂《たもと》に落ちてから、約十年の後に余は始めて先生の挙げた凡《すべ》てを読む事が出来たのである。先生はあの紙片にそれほどの重きを置いていなかったのだろう。凡てを読んでからまた十年も経った今日から見れば、それほど先生の紙片に重きを置いた余の方でも可笑《おか》しい気がする。
外国から帰った当時、先生の消息を人伝《ひとづて》に聞いて、先生は今鹿児島の高等学校に相変らず英語を教えているという事が分った。鹿児島から人が出てくる度に余はマードックさんはどうしたと尋ねない事はなかった。けれども音信はその後二人の間に全く絶えていたのである。ただ余が先生について得た最後の報知は、先生がとうとう学校をやめてしまって、市外の高台《たかだい》に居《きょ》を卜《ぼく》しつつ、果樹の栽培《さいばい》に余念《よねん》がないらしいという事であった。先生は「日本における英国の隠者《いんじゃ》」というような高尚《こうしょう》な生活を送っているらしく思われた。博士問題に
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