由である。しかし今日より六年後に、小生の趣味が現今の花袋君の趣味に達すると、達せざるとも固より小生の自由である。これも疎忽《そこつ》ものが読むと、花袋君と小生の嗜好《しこう》が一直線の上において六年の相違があるように受取られるから、御断りを致しておきたい。
花袋君がカッツェンステッヒに心酔せられた時分、同書を独歩君に見せたら、拵らえものじゃないかと云って通読しなかったと云って、痛く独歩君の眼識に敬服しておられる。花袋君が独歩君に敬服せらるると云う意味を漱石が独歩君に敬服すると云う意味に解釈するものはないからこの点は安心である。
愚見によると、独歩君の作物は「巡査」を除くのほかことごとく拵えものである。(小生の読んだものについて云う)ただしズーデルマンのカッツェンステッヒより下手な拵えものである。花袋君の「蒲団《ふとん》」も拵えものである。「生」は「蒲団」ほど拵えておられない。その代り満谷国四郎君の「車夫の家」のような出来栄えである。
拵えものを苦《く》にせらるるよりも、活きているとしか思えぬ人間や、自然としか思えぬ脚色を拵える[#「拵える」に丸傍点]方を苦心したら、どうだろう。拵
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