なかつたのである。さうして不思議の沈黙に陥つたかと思ふと、彼は負けた仏蘭西《〔フランス〕》に課すべき条件の項目を其間に調べ出した。彼はアルサス、ローレンの歴史を研究した末、此二州は元々独乙のものであつたのだから、戦勝後は当然旧主の手に帰るべきものだといふ説を発表した。(つゞく)

       九 トライチケ(四)

 独乙《〔ドイツ〕》は勝つた。独乙帝国は成立した。彼が十年の間|夢《ゆめ》に迄見た希望は遂に達せられた。
「統一の星は上《のぼ》つた。其|途《みち》を妨ぐるものは災を蒙《〔こうむ〕》れ」
 是が彼の言葉であつた。此光輝ある時期に際会しながら、猶且《〔なおか〕》つ厭世哲学を説くハルトマンの如きは畢竟《〔ひっきょう〕》ずるに一種の精神病者に過ぎないと彼は断言した。其癖意志の肯定は国家として第一の義務であると主張する彼は、ハルトマンによつて復活されたる意志の哲学、即ち宇宙実在の中心点を意志の上に置く哲学によつて大いに動かされたのである。彼は実社界を至極|手荒《てあら》いものに考へた。仁義博愛は口《くち》に云ふべくして政治上に行ふべきものでないと信じた。斯《か》くして彼はあらゆる人道的及び自由主義の運動に反対したのである。……
 自分はトライチケの影響で今度の欧洲戦争が起つたとは云はない。彼の生時にあつてすら、彼はビスマークの顧問でもなければ又助言者でもなかつた。彼の主張とビスマークの実行とは寧《〔むし〕》ろ偶然に一致したのだらう。たとひ彼が鉄血宰相の謳歌者であつたにした所で、謳歌されるビスマークの方では、夫程《〔それほど〕》彼の言論に動かされてゐなかつたかも知れない。それにも拘《〔かか〕》はらず結果から云へば、彼はビスマークの政治上で断行した事《こと》を、彼の学説と言論によつて一々|裏書《うらがき》したと云つても差支《〔さしつかえ〕》ないのである。さうして今日の独乙が、社会主義者其他の反抗に関せず、当時の方針を基儘《〔そのまま〕》継続して、其極《〔そのきょく〕》今度の大乱を引き起したとすれば、思想家としてトライチケの独乙に対する立場も亦《〔また〕》自然明瞭になつた訳である。
 是丈《〔これだけ〕》の関係を明かにすると、自分の癖として、又根本問題に立ち返つて、質問が起《おこ》したくなる。
「トライチケの鼓吹《〔こすい〕》した軍国主義、国家主義は畢竟《〔ひっきょ
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