》いても下し得《う》べき理窟であるとすると、一生は終《つひ》に夢よりも不確実なものになつてしまはなければならない。
斯《か》ういふ見地から我《われ》といふものを解釈したら、いくら正月が来ても、自分は決して年齢《とし》を取る筈《はず》がないのである。年齢《とし》を取るやうに見えるのは、全く暦と鏡の仕業《しわざ》で、其《その》暦も鏡も実は無に等しいのである。
驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を蔽《おほ》ひ尽して儼存《げんそん》してゐるといふ確実な事実である。一挙手一投足の末に至る迄《まで》此《この》「我《われ》」が認識しつゝ絶えず過去へ繰越《くりこ》してゐるといふ動かしがたい真境《しんきやう》である。だから其処《そこ》に眼を付けて自分の後《うしろ》を振り返ると、過去は夢|所《どころ》ではない。炳乎《へいこ》として明らかに刻下《こくか》の我を照《てら》しつゝある探照燈のやうなものである。従つて正月が来るたびに、自分は矢張り世間|並《なみ》に年齢《とし》を取つて老い朽ちて行かなければならなくなる。
生活に対する此《この》二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して、普通にいふ所の論理を超越してゐる異様な現象に就《つ》いて、自分は今何も説明する積《つもり》はない。又解剖する手腕も有《も》たない。たゞ年頭に際して、自分は此《この》一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任《まか》せる覚悟をした迄である。
若《も》し無に即して云《い》へば、自分は今度の春を迎へる必要も何もない。否《いな》明治の始めから生れないのと同じやうなものである。然《しか》し有《う》になづんで云へば、多病な身体《からだ》が又一年|生《い》き延びるにつれて、自分の為《な》すべき事はそれ丈《だけ》量に於《おい》て増すのみならず、質に於《おい》ても幾分《いくぶん》か改良されないとも限らない。従つて天が自分に又一年の寿命を借《か》して呉《く》れた事は、平常から時間の欠乏を感じてゐる自分に取つては、何《ど》の位の幸福になるか分らない。自分は出来る丈《だけ》余命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けてゐる。
趙州《でうしう》和尚といふ有名な唐の坊さんは、趙州古仏晩年|発心《ほつしん》と人に云《い》はれた丈《だけ》あつて、六十一になつてから初めて道に志《こゝろざ》した奇特《きどく》な心懸の
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