歩行《ある》けるだろう」
「少しは歩行きよくなった。――雨も風もだんだん強くなるようだね」
「そうさ、さっきは少し晴れそうだったがな。雨や風は大丈夫だが、足は痛むかね」
「痛いさ。登るときは豆が三つばかりだったが、一面になったんだもの」
「晩にね、僕が、煙草の吸殻《すいがら》を飯粒《めしつぶ》で練って、膏薬《こうやく》を製《つく》ってやろう」
「宿へつけば、どうでもなるんだが……」
「あるいてるうちが難義か」
「うん」
「困ったな。――どこか高い所へ登ると、人の通る路が見えるんだがな。――うん、あすこに高い草山が見えるだろう」
「あの右の方かい」
「ああ。あの上へ登ったら、噴火孔《ふんかこう》が一《ひ》と眼《め》に見えるに違《ちがい》ない。そうしたら、路が分るよ」
「分るって、あすこへ行くまでに日が暮れてしまうよ」
「待ちたまえちょっと時計を見るから。四時八分だ。まだ暮れやしない。君ここに待っていたまえ。僕がちょっと物見《ものみ》をしてくるから」
「待ってるが、帰りに路が分らなくなると、それこそ大変だぜ。二人離れ離れになっちまうよ」
「大丈夫だ。どうしたって死ぬ気遣《きづかい》はないんだ。どうかしたら大きな声を出して呼ぶよ」
「うん。呼んでくれたまえ」
 圭さんは雲と煙の這《は》い廻るなかへ、猛然として進んで行く。碌さんは心細くもただ一人|薄《すすき》のなかに立って、頼みにする友の後姿を見送っている。しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。
 大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をきって、普段よりは烈《はげ》しく轟《ごう》となる。その折は雨も煙りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、悄然《しょうぜん》と立つ碌さんの体躯《からだ》へ突き当るように思われる。草は眼を走らす限りを尽くしてことごとく煙りのなかに靡《なび》く上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨の間を大きな雲が遠慮もなく這い廻わる。碌さんは向うの草山を見つめながら、顫《ふる》えている。よな[#「よな」に傍点]のしずくは、碌さんの下腹まで浸《し》み透《とお》る。
 毒々しい黒煙りが長い渦《うず》を七巻《ななまき》まいて、むくりと空を突く途端《とたん》に、碌さんの踏む足の底が、地震のように撼《うご》いたと思った。あとは、山鳴りが比較的静まった。すると地面の下の方で、
「おおおい」と呼ぶ声がする。
 碌さんは両手を、耳の後ろに宛《あ》てた。
「おおおい」
 たしかに呼んでいる。不思議な事にその声が妙に足の下から湧《わ》いて出る。
「おおおい」
 碌さんは思わず、声をしるべに、飛び出した。
「おおおい」と癇《かん》の高い声を、肺の縮むほど絞《しぼ》り出すと、太い声が、草の下から、
「おおおい」と応《こた》える。圭さんに違ない。
 碌さんは胸まで来る薄をむやみに押し分けて、ずんずん声のする方に進んで行く。
「おおおい」
「おおおい。どこだ」
「おおおい。ここだ」
「どこだああ」
「ここだああ。むやみにくるとあぶないぞう。落ちるぞう」
「どこへ落ちたんだああ」
「ここへ落ちたんだああ。気をつけろう」
「気はつけるが、どこへ落ちたんだああ」
「落ちると、足の豆が痛いぞうう」
「大丈夫だああ。どこへ落ちたんだああ」
「ここだあ、もうそれから先へ出るんじゃないよう。おれがそっちへ行くから、そこで待っているんだよう」
 圭さんの胴間声《どうまごえ》は地面のなかを通って、だんだん近づいて来る。
「おい、落ちたよ」
「どこへ落ちたんだい」
「見えないか」
「見えない」
「それじゃ、もう少し前へ出た」
「おや、何だい、こりゃ」
「草のなかに、こんなものがあるから剣呑《けんのん》だ」
「どうして、こんな谷があるんだろう」
「火熔石《かようせき》の流れたあとだよ。見たまえ、なかは茶色で草が一本も生《は》えていない」
「なるほど、厄介《やっかい》なものがあるんだね。君、上がれるかい」
「上がれるものか。高さが二間ばかりあるよ」
「弱ったな。どうしよう」
「僕の頭が見えるかい」
「毬栗《いがぐり》の片割れが少し見える」
「君ね」
「ええ」
「薄《すすき》の上へ腹這《はらばい》になって、顔だけ谷の上へ乗り出して見たまえ」
「よし、今顔を出すから待っていたまえよ」
「うん、待ってる、ここだよ」と圭さんは蝙蝠傘《こうもり》で、崖《がけ》の腹をとんとん叩《たた》く。碌さんは見当を見計《みはから》って、ぐしゃりと濡れ薄の上へ腹をつけて恐る恐る首だけを溝《みぞ》の上へ出して、
「おい」
「おい。どうだ。豆は痛むかね」
「豆なんざどうでもいいから、早く上がってくれたまえ」
「ハハハハ大丈夫だよ。下の方が風があたらなくって、かえって楽《らく》だぜ」
「楽だって、もう日が暮れるよ、早く上がらないと」
「君」
「ええ」
「ハンケチはないか」
「ある。何にするんだい」
「落ちる時に蹴爪《けつま》ずいて生爪《なまづめ》を剥《は》がした」
「生爪を? 痛むかい」
「少し痛む」
「あるけるかい」
「あるけるとも。ハンケチがあるなら抛《な》げてくれたまえ」
「裂いてやろうか」
「なに、僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。風で飛ぶと、いけないから、堅く丸めて落すんだよ」
「じくじく濡《ぬ》れてるから、大丈夫だ。飛ぶ気遣《きづかい》はない。いいか、抛げるぜ、そら」
「だいぶ暗くなって来たね。煙は相変らず出ているかい」
「うん。空中《そらじゅう》一面の煙だ」
「いやに鳴るじゃないか」
「さっきより、烈《はげ》しくなったようだ。――ハンケチは裂けるかい」
「うん、裂けたよ。繃帯《ほうたい》はもうでき上がった」
「大丈夫かい。血が出やしないか」
「足袋《たび》の上へ雨といっしょに煮染《にじ》んでる」
「痛そうだね」
「なあに、痛いたって。痛いのは生きてる証拠だ」
「僕は腹が痛くなった」
「濡《ぬ》れた草の上に腹をつけているからだ。もういいから、立ちたまえ」
「立つと君の顔が見えなくなる」
「困るな。君いっその事に、ここへ飛び込まないか」
「飛び込んで、どうするんだい」
「飛び込めないかい」
「飛び込めない事もないが――飛び込んで、どうするんだい」
「いっしょにあるくのさ」
「そうしてどこへ行くつもりだい」
「どうせ、噴火口から山の麓《ふもと》まで流れた岩のあとなんだから、この穴の中をあるいていたら、どこかへ出るだろう」
「だって」
「だって厭《いや》か。厭じゃ仕方がない」
「厭じゃないが――それより君が上がれると好いんだがな。君どうかして上がって見ないか」
「それじゃ、君はこの穴の縁《ふち》を伝《つた》って歩行《ある》くさ。僕は穴の下をあるくから。そうしたら、上下《うえした》で話が出来るからいいだろう」
「縁《ふち》にゃ路はありゃしない」
「草ばかりかい」
「うん。草がね……」
「うん」
「胸くらいまで生《は》えている」
「ともかくも僕は上がれないよ」
「上がれないって、それじゃ仕方がないな――おい。――おい。――おいって云うのにおい。なぜ黙ってるんだ」
「ええ」
「大丈夫かい」
「何が」
「口は利《き》けるかい」
「利けるさ」
「それじゃ、なぜ黙ってるんだ」
「ちょっと考えていた」
「何を」
「穴から出る工夫をさ」
「全体何だって、そんな所へ落ちたんだい」
「早く君に安心させようと思って、草山ばかり見つめていたもんだから、つい足元が御留守《おるす》になって、落ちてしまった」
「それじゃ、僕のために落ちたようなものだ。気の毒だな、どうかして上がって貰えないかな、君」
「そうさな。――なに僕は構わないよ。それよりか。君、早く立ちたまえ。そう草で腹を冷《ひ》やしちゃ毒だ」
「腹なんかどうでもいいさ」
「痛むんだろう」
「痛む事は痛むさ」
「だから、ともかくも立ちたまえ。そのうち僕がここで出る工夫《くふう》を考えて置くから」
「考えたら、呼ぶんだぜ。僕も考えるから」
「よし」
 会話はしばらく途切《とぎ》れる。草の中に立って碌さんが覚束《おぼつか》なく四方を見渡すと、向うの草山へぶつかった黒雲が、峰の半腹《はんぷく》で、どっと崩《くず》れて海のように濁ったものが頭を去る五六尺の所まで押し寄せてくる。時計はもう五時に近い。山のなかばはたださえ薄暗くなる時分だ。ひゅうひゅうと絶間なく吹き卸《お》ろす風は、吹くたびに、黒い夜を遠い国から持ってくる。刻々と逼《せま》る暮色のなかに、嵐は卍《まんじ》に吹きすさむ。噴火孔《ふんかこう》から吹き出す幾万斛《いくまんごく》の煙りは卍のなかに万遍《まんべん》なく捲《ま》き込まれて、嵐の世界を尽くして、どす黒く漲《みなぎ》り渡る。
「おい。いるか」
「いる。何か考えついたかい」
「いいや。山の模様はどうだい」
「だんだん荒れるばかりだよ」
「今日は何日《いくか》だっけかね」
「今日は九月二日さ」
「ことによると二百十日かも知れないね」
 会話はまた切れる。二百十日の風と雨と煙りは満目《まんもく》の草を埋《うず》め尽くして、一丁先は靡《なび》く姿さえ、判然《はき》と見えぬようになった。
「もう日が暮れるよ。おい。いるかい」
 谷の中の人は二百十日の風に吹き浚《さら》われたものか、うんとも、すんとも返事がない。阿蘇《あそ》の御山は割れるばかりにごううと鳴る。
 碌さんは青くなって、また草の上へ棒のように腹這《はらばい》になった。
「おおおい。おらんのか」
「おおおい。こっちだ」
 薄暗い谷底を半町ばかり登った所に、ぼんやりと白い者が動いている。手招きをしているらしい。
「なぜ、そんな所へ行ったんだああ」
「ここから上がるんだああ」
「上がれるのかああ」
「上がれるから、早く来おおい」
 碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、脱兎《だっと》の勢《いきおい》で飛び出した。
「おい。ここいらか」
「そこだ。そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ」
「こうか。――なるほど、こりゃ大変浅い。これなら、僕が蝙蝠傘《こうもり》を上から出したら、それへ、取《と》っ捕《つ》らまって上がれるだろう」
「傘《かさ》だけじゃ駄目だ。君、気の毒だがね」
「うん。ちっとも気の毒じゃない。どうするんだ」
「兵児帯《へこおび》を解いて、その先を傘《かさ》の柄《え》へ結びつけて――君の傘の柄は曲ってるだろう」
「曲ってるとも。大いに曲ってる」
「その曲ってる方へ結びつけてくれないか」
「結びつけるとも。すぐ結びつけてやる」
「結びつけたら、その帯の端《はじ》を上からぶら下げてくれたまえ」
「ぶら下げるとも。訳《わけ》はない。大丈夫だから待っていたまえ。――そうら、長いのが天竺《てんじく》から、ぶら下がったろう」
「君、しっかり傘《かさ》を握っていなくっちゃいけないぜ。僕の身体《からだ》は十七貫六百目あるんだから」
「何貫目あったって大丈夫だ、安心して上がりたまえ」
「いいかい」
「いいとも」
「そら上がるぜ。――いや、いけない。そう、ずり下がって来ては……」
「今度は大丈夫だ。今のは試《ため》して見ただけだ。さあ上がった。大丈夫だよ」
「君が滑《す》べると、二人共落ちてしまうぜ」
「だから大丈夫だよ。今のは傘の持ちようがわるかったんだ」
「君、薄《すすき》の根へ足をかけて持ち応《こた》えていたまえ。――あんまり前の方で蹈《ふ》ん張《ば》ると、崖《がけ》が崩《くず》れて、足が滑べるよ」
「よし、大丈夫。さあ上がった」
「足を踏ん張ったかい。どうも今度もあぶないようだな」
「おい」
「何だい」
「君は僕が力がないと思って、大《おおい》に心配するがね」
「うん」
「僕だって一人前の人間だよ」
「無論さ」
「無論なら安心して、僕に信頼したらよかろう。からだは小さいが、朋友を一人谷底から救い出すぐらいの事は出来るつもりだ」
「じゃ上がるよ。そらっ……」
「そらっ……もう少しだ」
 豆で一面に腫《は》れ上がった両足を、うんと薄の根に踏ん張った碌さんは、素肌《すはだ》を二百十日の雨に曝《さら》したまま、海老《えび》のように腰を曲げて、一生懸命に、傘の柄《
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