ただ竹の中でかんかんと幽《かす》かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜《しも》が強く降って、布団《ふとん》のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮《さえ》ぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃《いしだたみ》と、倒れかかった山門《さんもん》と、山門を埋《うず》め尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗《のぞ》いた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏《うち》で海老《えび》のようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」
「妙だね」
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼《うす》で挽《ひ》く音がする。ざあざあと豆腐の水を易《か》える音がする」
「君の家《うち》は全体どこにある訳《わけ》だね」
「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」
「だから、どこにある訳だね」
「すぐ傍《そば》さ」
「豆腐屋の向《むこう》か、隣りかい」
「なに二階さ」
「どこの」
「豆腐屋の二階さ」
「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。
「僕は豆腐屋の子だよ」
「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。
「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い靄《もや》が一面に降りて、町の外《はず》れの瓦斯灯《ガスとう》に灯《ひ》がちらちらすると思うとまた鉦《かね》が鳴る。かんかん竹の奥で冴《さ》えて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子《こししょうじ》をはめる」
「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」
「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団《ふとん》を敷いて寝《ね》る。――僕のうちの吉原揚《よしはらあげ》は旨《うま》かった。近所で評判だった」
隣り座敷の小手《こて》と竹刀《しない》は双方ともおとなしくなって、向うの椽側《えんがわ》では、六十余りの肥《ふと》った爺《じい》さんが、丸い背《せ》を柱にもたして、胡坐《あぐら》のまま、毛抜きで顋《あご》の髯《ひげ》を一本一本に抜いている。髯の根をうんと抑《おさ》えて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ弾《は》ね返り、顋《あご》は上へ反《そ》り返る。まるで器械のように見える。
「あれは何日《いくか》掛ったら抜けるだろう」と碌さんが圭さんに質問をかける。
「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」
「そうは行くまい」と碌さんが反対する。
「そうかな。じゃ一日《いちんち》かな」
「一日や二日《ふつか》で奇麗《きれい》に抜けるなら訳《わけ》はない」
「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの丁寧に顋を撫《な》で廻しながら抜いてるのを」
「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが生《は》えるかも知れないね」
「とにかく痛い事だろう」と圭さんは話頭《わとう》を転じた。
「痛いに違いないね。忠告してやろうか」
「なんて」
「よせってさ」
「余計な事だ。それより幾日《いくか》掛ったら、みんな抜けるか聞いて見ようじゃないか」
「うん、よかろう。君が聞くんだよ」
「僕はいやだ、君が聞くのさ」
「聞いても好《い》いがつまらないじゃないか」
「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の申《もう》し出《だ》しを惜気《おしげ》もなし撤回した。
一度|途切《とぎ》れた村鍛冶《むらかじ》の音は、今日山里に立つ秋を、幾重《いくえ》の稲妻《いなずま》に砕《くだ》くつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。
「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。
「全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」
「豆腐屋の子がどんなになったのさ」
「だって豆腐屋らしくないじゃないか」
「豆腐屋だって、肴屋《さかなや》だって――なろうと思えば、何にでもなれるさ」
「そうさな、つまり頭だからね」
「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯《しょうがい》豆腐屋さ。気の毒なものだ」
「それじゃ何だい」と碌さんが小供らしく質問する。
「何だって君、やっぱりなろうと思うのさ」
「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」
「だから気の毒だと云うのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ」
「思って、なれなければ?」
「なれなくっても何でも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは横着《おうちゃく》を云う。
「そう注文通りに行《い》けば結構だ。ハハハハ」
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